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〔べリーの生い立ちと信仰
 べリーが自身のルーツを調べたところ,それは1632年英国から渡ってきたポーツマスのウイリアム・ベリーの子孫だということが分かり,彼はそのことを大変誇りに思っている。

 1847年1月16日,ジョン・カッティング・ベリーはメイン州フイプスブルグに生まれた。父ステファン・ベリーは貿易船の船長であったが,33才の若さで死亡した。ベリーは4才で父の親友クリストファー・スモールの一家にて養育されることになった。クリストファーは農業に従事して,特に学問をした人ではなかったが,彼はただ聖書を知っていた。

 朝夕に規則正しく祈りを捧げる彼の魂は高潔で,彼の妻,また3人の子供も愛に満ちた優しい心の持ち主で,べリーを温かく家族の一員として迎えたのである。しかし,経済的にはクリストファーー家もそれほど裕福でなく,また若くして死んだ彼の父は殆ど財産を残していなかったので,母は子どもの仕送りと自分の生活費のため針仕事に苦労せねばならなかった。

 べリーが11才になり,どうにか自分の力で生活できるようになるまで,仕送りは続けられた。べリーもまた自分で働ける年になると,彼の出来る仕事は何でも覚えた。蛤とりをして11才の時には自分の長靴をすでに買ったのである。自分で儲けたお金で一哩半の学校に通い雪の日も欠席することなく精勤賞も貰った。このようにして若くして彼は独立精神を,また開拓者魂を植えつけられ,その後の生涯に起きる様々な困難にも耐え抜くカを養った。実際彼は自分でできることはどんなことでも出来た。牛乳を搾ったり,それでバターやチーズを作ったり,網や綱のような漁師道具も作ったり,小舟から帆船まで操ることや,大工道具をもって物を作ったりすることは得意であった。又ありとあらゆる職種に従事した。20才までに彼は木工所の手伝い,店の番頭、草刈りの日雇い人夫,歯医者の助手,火災生命保険会社の支配人,ミシンの販売外交員等を経験した。ついには学校の先生にも なった。20才のとき,合衆国海岸調査会の水夫監督を任命するという好条件の仕事が持ち 込まれたが、残念なことに,その頃病気に罹りこの仕事は僅か数ヶ月で止めた。

 彼の父が船乗りであったこと,海辺に生まれ、海辺に遊び、海を眺め,沖を通る船を見て日々を過ごした彼は,海に対して心からの憧憬を砲いていた。大海の与える偉大な感化カに彼は船乗りになることを大いに憧れた。けれども船酔いが怖く,ついに船乗りになる勇気を失った。
〔べリーの生い立ちと信仰2〕
 18才の春に,熱烈なる宗教的感化を受けた彼は洗礼をうけ教会員となる。それまで好きであった社交ダンスをやめ,歌うことに熱中した。教会で寄付を募り,良き指導者を得て聖歌隊をつくり直し,音楽熱を盛んにした。
その結果この町にアメリカでも初めての音楽学校が作られるまでになった。この勢いはメイン州全体にまで広がり,ここから数々の有名な歌手を世に出した。これが後に彼が神戸においてプロテスタント最初の讃美歌を編纂するのに役立ち,神戸女学院での音楽教育に貢献したのである。

 卒業と同時にアメリカ外国伝道局の医療宣教師として任命されたが,1年間をメイン州のサウス・ポートランドの病院で実地の仕事に従事した。1872年4月10日にマリア・エリザベス・ゴープと結婚し,直ちに日本に向け船出した。

〔べリーの生い立ちと信仰3〕
 20才の年(1867年)彼は大病を患い,1年間は激しい仕事につけず,先の合衆国沿岸調査会の仕事を断念しなければならなかった。
そこで彼は仕方なしに一艘の小舟を借り,カスニー湾の沿岸や付近の島々にすむ人々に対して.ミシン販売の外交をするようになった。ミシンがまだ一般に使われていない時だったので,この仕事は経済的に極めて有利であった。小舟で沿岸の町々を巡って、いろいろ違った人たちとの出会いを楽しみながら,販売外交が順調に進められた。その季節の終わり頃.ブース湾にいたとき暴風雨に会い,2日間港に閉じ込められ,3日目に少し雨風の勢力も弱まったと思って漁師の忠告も開かず帰路に向かった。しかし,そのために,彼の生涯で二度と体験できないような恐怖を味わい,死の世界を見たのである。。荒波と激流に翻弄され、港の近くでは暗礁に捕らえられそうになったが,高波に押しやられて気がついた時には岸に着いていた。

 一命が助けられた時,「神様が何事かのために自分の生命を護って下さったのだ」ということを強く感じ,その後の生涯を神の示し給う導きのままに従うことを決心させた。

 当時彼の町から僅か20哩の所にボウドイン・カレッジがあったが,それまで町には一人の卒業生もなく.彼も関心はなかった。しかし神に仕える聖職になろうと思った彼は,この大学に入学した。ここで彼は古典教育と,何より人間性の尊重を教えられたが,これが後に医者としての重要な準備教育であったとべリーは述懐している。だれもが,自分だけでなく友人も,彼が牧師になるものと思っていたが,そのうち彼には牧師の賜物が与えられていないと分かり,医学の道を選び,22才の年にボウドイン大学と姉妹校にあたるメイン医学校に入った。さらにその後.当時アメリカの著名医学校の一つであったジェファ−ソン医科大学に学び,1871年25才で卒業した。
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