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べリー夫妻の来日
 新婚のべリ一夫妻はサンフランシスコ・ゴールデンゲートより外輪蒸気船アメリカ号(4500トン) に乗り込んだ。この外輪船は前年明治4年(1871年)10月10日,岩倉具視全権大使が伊藤博文や大久保利通らを従え,明治新政府として日米修好通商条約の改正のため欧米各地訪問に用いられた船で,当時のアメリカ最速船であった。

 べリ一夫妻は24日間の船旅の後.新婚旅行の目的地日本の横浜に到着した。

 横浜では先に日本に遭わされていたヘボンの所に滞在した。その頃,ヘボンは和英辞典の編纂に忙しくしていたが,べリーの到着を自分の後継者が出来たと言って心より歓迎した。こうして,ヘボンの死に至るまで続くことになる二人の厚い友情が始められたのである。ヘボンから日本での働きに対する良きアドバイスを受けたのち,横浜・上海間の太平洋汽船会社の定期便にて1872年5月27日神戸に着いたのである。

 神戸では,既に外人居留地に派遣されていた宣教師グリーンやデービスに迎えられる。

 この年,京都で国際工芸美術博覧会が開催されていたが,この見学を兼ねて京都に仮住まいのギュリック宣教師に招かれたとき(5月30日),これを知った京都医師会が歓迎の晩餐会を催してくれたうえ、翌日に同医師会が建設中の病院長に招聘したい旨の申し出を受けた。京都で働けることは好ましく思われたが,この招聘は,先に建てられた京都市の病院がドイツ人医師を雇ったことへの対抗策であることが分かったので,この申し出を断って神戸に帰ったのである。
開港地・兵庫における病院建設
 今日わが神戸大学医学部には全国に先駆けて国際交流センターが設立され,素晴らしい成果をあげている。港町神戸に相応しい存在である。歴史を顧みれば,兵庫県は開港地として国の重要な役割を果たすべく,初代知事(神戸外国事務局判事)に伊藤俊輔(博文)を任命していることでも明らかである。ここに明治新政府は洋医の養成と近代病院を目指して,明治元年4月に神戸外国事務所に病院御用掛を置き,文部省直轄の病院建設に着手したのである。その時の病院創立趣意書には,

 「病院ハ人命ヲ保助シ,人種ヲ蕃殖シ,貧民ノ病ノ疾ンテ醫薬ヲ得ザル者ヲ救助スル道ナレバ,国家ノ欠ク可ラザル要務ナリ。今ココニ神戸二於イテ官許ヲ請ケ,一院ヲ設ケ貴賎ノ区別ナク,有疾者ハ来テ治療ヲ得シメ,貧民ニハ醫薬ヲ施シ,聊か力救助ノー端卜為サンコトヲ欲ス。我レト志ヲ同ジクスル者,不拘多少納金アランコトヲ希望スル者也。
                   明治元年  病院御用掛」

 とあるように,病院は貴賎の区別なく人命を尊び,そのため国がこれを建てるのであるから,志のあるものからは寄付納金を多少に関わらず希望するものであると述べている。
 これは欧米の病院に倣って寄付献金で施設の設立維持を計ろうとする,当時では斬新な理念であった。

 そして明治2年3月,病院は摂津国八部郡神戸字宇治野村(現中央区下山手通7丁目)に竣工した。同年4月,神戸病院開院式を行い,A・M・Vedderを病院支配頭に迎え、病院内に医学伝習所も開設された。しかし短期間でお雇い外人教師は辞職したので,明治3年には、院長代理として山田俊卿が派遣されている。

 かれは東京大学医学部の前身,大学東枚の大得業生であった。彼は明治5年に神戸病院を辞職し,べリーの支援により設立された貧民病院の院長になっている。明治5年5月に院制が改正され,神戸病院は兵庫県所轄となり、西春藏院長が就任している。
明治初期の神戸病院・神戸医学校 画像
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