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明治初期の神戸病院・神戸医学校 画像2
〔神戸におけるべリーの働き
 べリーは神戸に着いた年に,居留地の外人のための神戸国際病院院長に迎えられたが,それには邦人の貧民に医療を無料で施し,入院が必要な者には国際病院の一部をそれに供するという条件を付した。そして貧民にキリストの道を伝え、聖書の話を聞かせたのである。その後、外人居留地内の生田神社前に邦人医師の協力により,貧民のための施療所恵済院を開いた。しかし,キリスト教の布教を目的に来た彼は、どうしても居留地外に施設が欲しかった。しかし未だ切支丹禁令の高札の立っていた当時、もこれを許すことは出来ずに終わった。

 しかし山田俊卿医師はべリーの貧民医療に賛同し、自分でも貧民病院を設立せんと,べリーに相談した。この時,べリーは自身の働きのために与えられた200円を山田医師の働 きに供したのである。そして山田俊卿医師は 神戸病院を辞して,貧民病院を起こしたのである。ベリーも当然彼を応援し,この貧民病院は非常に患者の評判も良く,神戸病院のそれを上回った。そこで当時の7代県令(知事)神田孝平は、べリーの働きに好意と理解を示していたので、何とかこれを一つにすることを願った。

 明治6年7月、貧民病院は廃止されることとなり、その医療器具一切は神戸病院に委譲 されることになった。その時,先にべリーが山田医師に彼の貧民病院の働きのために貸し与えた200円は,県からべリーに返還されている。山田医師はべリーに師弟の関係を結ぶことを求めたが、べリーはそれを良しとせず,いつも彼をアシスタントとして,又友人としてもてなした。
 山田医師はその後,郷里豊後佐伯に重症患者のため呼び戻され,貧民病院が神戸病院に委譲される時には,この事業はべリーと親しい影山耕造医師に受け継がれていた。

 貧民病院がなくなり、以後べリーは神戸病院に関わることとなり、同病院内にて貧民医療に従事することとなった。ここに神田県令の意図は達っせられ,べリーもまたこの県令と親交を厚くしている。この時の神戸病院の院長は西春藏医師であるが,西院長もべリーを遇するに師礼をもってした。

 このため神戸病院は再び充実し、その評判も回復し、以後今日まで病院は大きく発展し,実に今日125年の,わが国でも最古の歴史を有する病院の一つとなっている。ただし,べリーは一切の報酬を受けることを辞退して、診療と教育に奉仕した。そのかわり,病院以外にも各地に赴き診療活動と布教に努めた。〈付記,山田医師 影山医師の名前が先に発刊きれた袖戸大学医学部創立50周年記念写真集「目で見る125年の歩み」25頁医学伝習所医学入門奉願書に見られる)
べリーと解剖学
 さて,神戸病院の医学教育は,お雇い外人教師ベッダーらにより始められたが,べリーが来日した時には既に彼らはいなく,いまだ解剖実習もなされていなかった。当時わが国は脚気に悩む者が多く,その病態も不明であった。べリーはその原因を追求すべく,囚人の引き取りのない遺体を解剖させて欲しいと,明治5年9月神田県令に申し入れた。県令がこれを国に問い合わせたところ,解剖は医学のために有益なことだが,居留地では不都合なる故,病院でわが国医師を立ち会わせたうえで,行うこと。また,解剖後は手厚く葬儀をし,この葬儀費をわが国医師に解剖参観料として負担させるので,死体を無料で差し出して良いという許可がべリーに与えられた。こうして明治6年1月病院内に解剖所を設置し、べリーがこれを担当した。まさにこれがわが医学部解剖学の始まりである。
 明治9年,医学伝習所は神戸病院附属医学所と改称された。この年は医制が定められ,医業の許可制となり,以後漢方医は閉め出され,洋医でなくては開業出来なくなった。
 明治10年4月べリーは外国伝道局から1年間の休暇を得て日本を離れるが.この時,べリーに対し,西春藏院長の申請により,兵庫県会はその功績を請えて県令森岡昌純の名をもって感謝状を贈り,また漆器一個金子錦綺若干疋をこれに添えて博士を労ったのである。
 明治11年,べリーは神戸病院を去り岡山に赴いたが,彼の後にはオランダ人医師ヘイデンが神戸病院に招かれている。
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