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べリーの神戸以外での働き
 1878年(明治12年)春、岡山県令高崎五六の招きに応じて神戸を離れ,岡山に赴いたべリーは,岡山県立病院の設立にあたった。ここでも病院外での診療事業と布教に力を注いだ。その後,明治17年に京都で同志社大学を興した新島襄に招かれ,彼と共にここにキリスト教医科大学を設立せんとしたが,様々の理由でこれは果たせなかった。しかし.明治20年同志社病院を設立し,ここに又わが国で最初の看護婦学校を設立した。べリーはその院長として就任し,校長には新島襄がなり,看護婦婦長にボストンからミス・リンダ・リチヤードを招いている。

 明治26年京都同志社病院附属看病婦学校最初の卒業生の写真(付図3)

明治24年10月美濃の大地震に際しては,邦人医師、看護婦数名を伴い,2週間にわたり野外病院を設け羅災者を救護治療した(付図5)。

 1894年(明治26年)さらに専門知識を深めて日本での医療と教育に尽くすため,べリーは眼科と耳鼻科を補習する目的でウィーンに1年間留学した。しかし,当時の世界的大恐慌はべリーを日本に帰すことを許さず,彼はやむなく京都を最後に21年間のわが国における医療宣教師としての働きにピリオドを打ったのである。そして

1896年以後マサチュセッツ州ウースター市に留まり,ウースター市病院の眼科、耳鼻科に従事した。またウースター経済クラブ会長、組合教会クラブ会長をも務めた。

1936年2月9日89才で召天。
付図3、5
べリーの癒しの理念と監獄改善運動
 癒しの業を、富める人々だけのものでなく,貧しい人々にも同様に施すことは,創造主なる神により与えられた人命の大切さと,また等しさを教えるものとして,宣教師たちが何時でも何処でも心掛けてきたことである。もともと病む貧民を収容して食事を与え,衣服を与え,休養を与えたところが病院のはじまりで、それは教会の主な働きの一つだった。

 病院が身体の癒しのためなら,教会は魂の癒しのために建てられている。べリーは宣教師たちとともに日本各地に教会の基礎を築いていった。神戸で一番歴史のある教会「神戸教会」が,今日も彼の名を伝えている。

 べリーは神戸病院にいる間に,しばしば囚人の重病患者の診療のために乞われて神戸監獄を訪れた。そこで彼が見たものは,囚人たちの非人間的扱いであった。そこで彼は神田県令に囚人の扱いについて種々改良すべき点を申し述べ,さらに日本各地の監款の視察を申請し,その許可を当時の内務大臣大久保利道に直談判して認めて貰うことができた。

 大久保卿はべリーの考えを良く理解し,彼が明治9年に提出した播磨,大阪,兵庫,京都の 四大監獄視察報告書「獄舎報告書」をもとに,近代日本の監獄法が制定された。わが国における監獄改良の端緒を開いたのである。またその中では,西洋諸国では教誨師を設けているが,日本でもキリスト教教誨師を採用させたのである。

 これは当時の日本では先駆的な出来事であり,日本社会事業史の上からも記憶すべきことである。蓋し,監獄をみればその国の文化度がたちどころに分かるのである。身体の病が病院で癒されるなら,心の病は精神病院で,罪悪病は刑務所で癒されなくてはならない。ベリーはこの意味で全人医療をすでに遂行したのである。
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