まえがき
日本におけるキリスト教宣教は1549年にザヴィエルが始めて伝えたと言われている。「地の果てまで福音をのべ伝えよ」との宣教命令をオリブ山で復活の主イエスさまから受けた弟子たちが世界中に、ことに日本に遣わされるのに1500年もかかっただろうか。シルクロ−ドの商人たちは中東から数年で中国に来ている。もっと早い時代にこの国にも福音が到達していたはずだ。しかしその足跡はキリシタン禁令により全て消されてしまった。 1587年(天正15年)7月24日、秀吉はキリシタン禁制(バテレン追放令)を発布。以後1873年(明治6年)2月19日キリシタン禁教の高札が降ろさるまで約300年間、この国からキリストの匂いのするものは全て取り除かれた。 フランシスコ・ザヴィエル以前に伝えられたキリスト教(景教)の存在は殆ど認められないが、このような反キリストの歴史を顧みればそれも当然である。しかし真理は決して闇に葬られることはない。本体は消されても影が依然として残されている。このことを証明しようとした先達たちの努力の賜物で少しづつではあるが真理に光が射してきた。感謝である。 わたしの貧しい小冊子「聖徳太子とイエス・キリスト」を自費出版したのは約30年前のことである。そのころ冨山昌徳氏の遺稿集「日本史のなかの仏教と景教」とその続編を義弟の山下幸夫氏(中央大学教授)が出版され全国の教会に配付された。素晴らしい研究成果を、独力で築かれた冨山昌徳兄の努力はまことに主の御前に尊いものである。小生の小冊子を送らせていただいたところ、冨山氏の奥様からも励ましのお手紙も頂いたり、山下先生とも三宮でお会いできたのも懐かしい思い出です。その後、わたし自身は結局今日に至るまで何もできなかったが、賜物豊かな人々による探求の成果が続々発表されうれしいかぎりである。これらの一部を付録と言うには量も内容も本文以上ですが、驚くべき事実をぜひとも紹介したく掲載しました。 聖徳太子とイエス・キリスト」では、敢えて古い文語訳聖書を引用した。これは新しい口語訳聖書よりも古文とよく整合するからである。 たとへば太子が片岡への道中で飢者(うえたるひと)に会ったが翌日彼は死んでいた。太子は飢者を墓に葬った。即ち「墓固封(つかつきかた)む」と日本書紀にある。さらに数日之後(ひへて)太子は飢者の復活を信じて、使いのものに墓を視させたところ「封(かた)め埋(うず)みしところ動(うご)かず」とある。文語聖書も、ピラトの許可を得て墓を守るため祭司長たちは、「行きて石に封印(ふういん)し、番兵を置きて墓を固(かた)めたり」と、口語訳では使われない言葉が残っている。 私事になりますが1997年5月、主の奇すしきお導きで開業を許され早や5年目を迎えます。この所に完全な癒しを約束して下さる主の教会が立つことを願って合衆国長老教会派遣のウイリアム・モ−ア宣教師と共に協力者も得て西谷聖書集会を続けている。ここに集う方々の益になるようにとアン夫人の勧めで本冊子を出版することにした。
2001年6月 開院5周年を記念して
近 藤 春 樹
追補:2010.7.16
【久米邦武と岩倉欧米遣外使節】
我が国で、聖徳太子とイエス・キリストの関連、すなわち太子伝承は聖書におけるイエス・キリスト伝の翻案であるとの説を初めて唱えたのは久米邦武である。
久米は若いころ史学の手ほどきをうけ、太政官の修史館へ転じては歴史考証が仕事になっていた。その彼が三十歳代前半の1871(明治四)年から二年近くのあいだ欧米諸国を訪れた。岩倉具視(いわくらともみ)を代表とする、いわゆる岩倉遣外使節に随行したのである。使節の公式旅行記録である『米欧回覧実記』(1878年刊)をまとめたのも久米邦武にほかならない。
【久米の聖書翻案説】
そんな彼が岩倉遣外使節に随行員として2年間、欧米のキリスト教に接しているうちに、キリストの伝記と太子の伝承の不思議な類似に気づいたのです。久米は、「聖徳太子の対外硬」という論文を、雑誌の『太陽』(1904[明治三七]年の一月号)に発表した。そのなかで太子の誕生譚は、「正しく基督の新約書を焼直したるもの」だと述べている。
この論文では、しかし、伝播の経路があきらかにされていない。
その不備をおぎなうという思いもあって久米は、翌1905(明治三八)年に、『上宮太子実録』を刊行している。
【古代日本へ耶蘇教の伝播】
そして、古代日本へ聖書の情報がとどいた事情を、つぎのように説明している。「隋唐のころに耶蘇教の支那に伝播し、其説を太子の伝に付会し」たのだ、と。聖徳太子伝承については、さまざまな関連史料があり、久米は、それらを検討して、「法隆寺東壇仏ノ銘」は信憑性が高いが、『聖徳太子伝暦』は誇張が多く、信ずるにたりない。また『上宮聖徳太子伝補剛(ほけつ)記』には、非現実的なつくり話が多い。史料としては信頼しきれずと。間人后への夢告や、厩(うまや)での生誕伝説も、後世がでっちあげた話であり、それは、西方から伝来した「聖書の焼直し」にすぎないと述べている。
久米はわが国に聖書が伝わったのは唐代中国で盛隆を極めた景教いわゆるネストリウス派キリスト教を遣唐僧が持ち帰ったと考えたが、最近はもっと古くに、紀元70年ローマ帝国によるエルサレム滅亡で世界中に離散した原始キリスト教徒の一団が極東の我が国に到着したという説もあり、彼らの代表人物が聖徳太子を補佐した秦河勝であるという。
【久米とキリスト教】
初めのころの久米は、キリスト教にあまりいい印象をいだいていない。『米欧回覧実記』にも、批判的な言葉をのこしていた。たとえば、ニューヨークの日曜学校をおとずれたあとで、こんな口吻をもらしていた。
『西洋の人民は、バイブル、とりわけ新約聖書をありがたがる。しかし、これはまったくばかばかしい書物である。「荒唐ノ談ナルノミ、天ヨリ声ヲ発シ、死囚復活ク、以テ瘋癲ノ譫語トナスモ可ナリ」』。
以上のように、見下しきっていた。しかし10年後の1897(明治三○)年には、彼は聖書物語を刊行している。カトリックの宣教師であるステイシュンの口述を、自ら書きとめ一冊にまとめあげた。『耶蘇基督真蹟考』が、それである。その後の久米が、キリスト教へ傾倒したことは間違いない。
キリスト教に強い関心をいだきつつ、日本の歴史を研究する。そんな久米だからこそ聖徳太子生誕伝説の聖書翻案説も思いつきえたのだろう。
(以上は「キリスト教と日本人」井上章一著、講談社現代新書2001年5月20日第一刷発行を参照した。)品
以下に聖徳太子伝承とイエス・キリスト伝の類似を考証しよう。
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