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聖徳太子とイエス・キリスト
「逆説の日本史」を読んで
もくじ
1.聖徳太子と法隆寺
2.壬申(じんしん)の乱
3.聖徳太子とイエス・キリスト                             
 
1.聖徳太子と法隆寺
聖徳太子(厩戸皇子)は用明天皇(31代)の第二皇子であり、25歳で叔母である第33代推古天皇(用明天皇の妹)の摂政となり、49歳で没するまで数々の善政をしき、数々の寺院を建立し、遣隋使を派遣し、わが国最初の憲法(十七条憲法)をつくったと言われる。戦後お札の顔にも用いられアメリカ合衆国も彼は民主的な人物と評価した。

太子程の人物がなぜ天皇にならなかったか。この偉大な太子の死後、彼の息子たち一族はすべて死に絶えている。太子とその妻・膳部夫人の死も不可解である。太子の死については、日本書紀では「推古天皇29年春2月5日、夜中に厩戸皇子は斑鳩宮にて亡くなった」とだけ書かれている。
しかしその後に書かれた太子伝暦には「太子と膳部夫人は同じ日の夜に亡くなった」と二人の心中説を述べているが、なにか裏がありそうだ。

こう言ったことから梅原猛氏は彼の著書「隠された十字架・法隆寺論」(1981年、新潮文庫刊)で太子一族の怨霊を宥め鎮魂するために法隆寺は建てられたとの説を唱え、ベストセラ−にもなった。

いったい聖徳太子一族はだれに滅ぼされたか。そのころ権力をもっていた蘇我入鹿が推古女帝の亡き後、皇位にもっとも近い太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう−蘇我馬子の娘との間にできた)と対立したと書記に書かれている。

しかし、山背大兄王は「わたしが蘇我入鹿と争えば、たとい戦に勝っても民百姓を苦しめることになる、だからわが身を入鹿にくれてやろう」と、孫もふくめて一族すべてが首つり自殺を決めたと書かれている。

イエス・キリストは人るいの罪を贖う小羊としてご自身を十字架の上に捧げられたのであるが、一族全員が他人のために身を捧げたという行為がもし事実ならこんなすばらしい話はないではないか。

太子一族は皇位争いの犠牲となったと考えるのが当然ではないか。逆説的に推理すると、入鹿を悪者に仕立てた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の謀略に暗殺されたと考えるほうが理に適っていないか。
                         
 「逆説日本史」から日本書紀をみればそれは皇位争いの歴史であり、大和朝廷内で天皇の地位を奪い合うため、まことに陰惨な血で血を洗う暗殺劇が日夜くりひろげられたということに唖然とする。

大化の改新とは中大兄皇子が中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ−後の藤原鎌足)と謀って、当時横暴を振るっていた蘇我入鹿をたおしたとされるが、藤原鎌足の一族が、その後の皇位を閨閥でもって背後で牛耳る様は、今日の黒幕による密室政治の源流を見る思いがする。

      
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