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神の信実・神への忠信

―ダビデ王とその家臣―

市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

2006.11.26.

 

(歴代誌上111519

序.

 歴代誌上111519は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下231317にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。

 

神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。

 

Ⅰ.神と王に対する三勇士の忠義

 ダビデが「ベツレヘム城門の傍らにある、あの井戸」の水が飲みたいと言ったとき(17節)、三勇士は王の切望を聞き、敵陣を突破して水を汲みに行って、持ち帰りました。なぜ彼がこんな願いを起こしなのかは、分かりません。しかし、その動機はこの記事では問題ではありません。三勇士の行動とダビデの対応とが重要なのです。今ダビデのいるアドラムの洞窟はエルサレム南西2526Kmの町にあります。また、ペリシテ軍がいるレファイムの谷はエルサレム南西数Kmのところに伸びる谷です。ベツレヘムもエルサレムの南方10キロメートルほどにある町です。

 

そうすると、アドラムから見れば、ベツレヘムはレファイムの谷と大体同じ方向にあり、その間の距離も短い訳ですから、ダビデは三人を自分のいる所から大変遠い、しかし敵陣のすぐ近くに送り込んだようなものです。けれども、三勇士はこのとき危険をも顧みないで、即座に王の要求にしたがい、ベツレヘム、すなわち敵陣の近くに飛び込んでいったのです。山や谷を超え、あるいは敵兵と出くわした場合にはそれを討ち倒し、ひた走りに走って、ダビデ王の所望する水を汲んで持ち帰って来た訳です(18節)。

 

王について

戦争は、一国の命運がかかっている出来事ですが、そこでは王の采配・力量が決定的な影響を及ぼします。そこでの家臣の義務は当然、王の命令への忠誠・献身です。王の意志と力量が実行され現実化するのは、当然のことながら、ひとえにその家臣の働きにかかっています。三勇士の行動は戦勝に必要な任務遂行―王の命令への即座の服従・実践―でした。王は神の器であり、国民に対して神を代表する者―神の“代理人”―です。生ける真の神に対する国民の従順や忠実さは、当時の王制下においては(人間の)王―今の場合、ダビデ王―に対する従順や忠実さの中に現われることになります―もちろん、王が神なのではありません! 

 

反対に、王への背信・敵対は神への背信・敵対に他なりません。三勇士はダビデ王への忠誠によって、実に自分たちの神への忠誠を具現し実証した訳です。それは、敵陣突破という、自己の命を犠牲にしても「可なり」とするほどに、神のために命を捧げるというものでした。家臣団の代表的存在である三勇士たちの明確な自己理解―自己の立場・存在意義・任務の明確な自覚・受容―が、神への献身としてのダビデへの忠誠によって現われ、そして、ダビデ軍の戦勝につながったのであります(サムエル記下5:17以下参照)。

 

Ⅱ.神に対するダビデの忠義と家臣に対するダビデの礼儀

ダビデのほうでも、主なる神および家臣に対する、自分のあるべきあり方・使命・責任を明確に自覚し、それにふさわしい行動を取ります。彼は家来が命懸けで汲んで来た水を飲まず、神に捧(ささ)げました―具体的には地に注いだ訳です(18節)。この水はダビデにとって家臣の命が懸かった、まさに「血の水」です(19節)。律法によれば、血は命の源と考えられ、それを飲むことは厳禁されましたが(創世記9:4、レビ記17102)、ダビデは結果的に、この律法規定―神の意志―をこのときの自分に適用したことになります―もちろん、ダビデがこのとき、この律法規定を自覚していた訳ではないでしょう。水を飲まずに地に注ぐというダビデのこの行為は決して、三勇士の忠義な働きを無にするものではありません。ダビデは、彼らが自分に仕えているのは、主なる神への従順と献身のゆえであることを知っています―決して、自分の人間的魅力やカリスマ、あるいは利害得失のゆえにではないことを。それゆえ、ダビデは、彼らが命懸けて汲んできてくれた水をどのようにすべきかを知っていたのです―神に捧げるべきことを!

 

血と水を神に捧げる

三勇士は命がけで水を汲んで来たのですが、誰のために命を懸けたのでしょうか。直接的にはもちろんダビデ王に対してです。しかし、究極的、本来的には主なる神に対してです。それゆえに、ダビデは血の水を自分のものとせず、彼らが命をかけた究極的相手である神にそれを捧げたのです。これは、ダビデ自身が自分の命を神に捧げたということのしるしでさえあります。言い換えれば、ダビデは家臣の命のかかった水を神に捧げることにより、自分の身を彼らと同列に置いた訳です。ダビデは単に彼らの勇敢で忠実な行為を感謝したとか、賞賛したという程度のことではありません。彼らと共に命を神に捧げたのです。そして、これは―人間的な言い方ですが―ダビデに対する彼らのいっそうの心服・信頼・尊敬・賞賛をもたらしたことでしょう。

 

よく「一将功成りて万骨枯る」と言いまが、一人の大将が手柄を立てた背後には、無数の兵士が戦場に屍をさらしたこと、指導者の功績は多くの人々の犠牲の上に成っていることを忘れてはならないないという意味で、上に立つ者に対する戒め・教訓の言葉でもあり、また、家来の働きを自分だけの手柄にする悪しき指導者を非難、揶揄(やゆ)する言葉でもあります。このときのダビデの家臣たちに対する態度は、これと対照的です。それは、王といえども、主なる神に対しては僕に過ぎず、神の前には王も家来も同列であるという自覚です。

 

父の話

私の父はインドネシアで敗戦を迎え、1年間の抑留の後、船で復員してきたのですが、かつてこんな話しを聞きました。日本に引き揚げて来る途中、ある朝目を覚ましたら、甲板で人々が大騒ぎしている。何事かと聞いたら、二人の元隊長がそれぞれ、元部下であった者たちにより簀(す)巻きにされて、海に投げ込まれたとのことです。その二人の隊長は普段、部下たちに威張り散らし、彼らを理不尽に扱っていたが、敗戦と共に軍隊内の身分関係が解消されたこともあり、恨み骨髄であった元部下たちが仕返しをしたそうです。

 

また、このような話しも聞きました。まだ敗戦前のこと、ある暑い日に部下たちが海で魚―鯛だったそうです―を取って、隊長に進呈した。隊長はそれを受け取り、涼しい所に保管しておいたが、昼になったので、その魚をみんなで一緒に食べようと思って取り出したところ、何と腐っていました―今のように冷蔵庫のないときですから、当然でしょう。部下たちは「何ですか、隊長。まだ召し上がっていらっしゃらなかったんですか。せっかく、召し上がっていただこうと思って、差し上げましたのに」と言ったとき、隊長は「馬鹿を言え。お前たちを措(お)いて、俺一人で食えるか」と言った。そのとき、部下たちは「隊長」と言って、ほろっと来たそうです。これらの事例は、人情としてもよく理解で来ます。しかし、ダビデは単に世人の人情からそうしたのではなく、主なる神こそまことにイスラエルの王にいまし、自分は家来と同様、主の僕に過ぎないことを自覚していたがゆえに、彼らの命懸けの水を神に捧げたのです。

 

Ⅲ.神の忠実

 ダビデも家来もそれぞれ神に対して忠実であり、そして互いに忠実でしたが、一番忠実な方は主なる神ご自身であります。主はかつてサウルを退けた後、ダビデを召し、王とされました。幾多の試練の中で彼を守られ、ダビデが王職を失うことのないように―例えば戦死・病死・謀反と追放などにより―守られました。そして、彼が王の職務をまっとうできるように、彼に必要な、忠実で有能な家来を与えられました。しかし、これらすべてのことは、先にダビデに与え、彼と結ばれた契約のゆえにです(サムエル記下7:12以下)。神自らこの契約を重んじ、それを固く保ち、守り通されたのです。

 

「ダビデの子」イエス・キリスト

自ら立てた契約への神ご自身の忠実性―その主権と恩恵―が「ダビデの子」なるイエス・キリストを世に遣わしたのです。キリストにおける神の歴史的、人格的現われは、神ご自身の契約的信実性・忠実性の最大の証しです。そして、キリストこそ、まことの王であり、ご自身、父なる神に全く従い通し、献身されました。この極致が十字架でなのです! これによって罪人の贖いが実現したのです。キリストはまさに、文字通り、命を懸けて神に従い(ルカ2346)、人々の身代わりに罪の処罰を受けてくださいました(Ⅱコリント5:21、Ⅰペトロ2:21)。

 

主は受難の僕として、弟子の足を洗われました(ヨハ13:4、5)。キリストは、弟子が躓き、裏切ることになっても、ご自身は彼らを愛し(ヨハネ13:1)、彼らのために祈り、彼らが再び立ち直って、福音宣教と教会奉仕において神にまったく献身することができるようにしてくださいました(ルカ2232、ヨハ2115以下)。

 

弟子たちは、キリストの地上在世中、決して、ダビデの三勇士のように、勇敢に命をかけて行動できませんでした。しかし、聖霊降臨後、キリストは聖霊によって彼らに臨み、彼らをご自身の復活の命に生かせ、如何なる迫害・弾圧にも屈せず、宣教し続けることができるように、彼らを変えてくださいました。

 

一将万骨と対照的なのは率先垂範ですが、キリストは単に率先垂範をなさったのではなく、弟子たち、信じる者たちのために自己犠牲をしてくださったのです。

ダビデは家臣の命懸けの水―正に彼らの命である血の水を―飲むことなく、すべて主に捧げました。命である血を飲むことは律法により厳禁されていますが、これは血による贖いと本質的に結び付いています。命の真の所有者・支配者はただ主なる神のみです。もし人の命である血を飲むことができる者があるとすれば、それは神ご自身です。ダビデが命の水を主に捧げたことは、主なる神だけが人の命の贖い主であることを表わすものです―ダビデがこれを自覚していたかに関係なく。イエス・キリストの十字架と復活はまさしく、神のみが真の命の所有者・支配者、それゆえ、罪人の唯一の、まことの贖い主であるということの成就なのであります。

 

Ⅳ.教会建設におけるキリストへの忠信と献身

教会建設はひとえに、キリストの御業です。キリストが主権的に、かつ恵み深く、ご自身の体なる教会を建て上げ、神の国を前進させてくださいます。そこにはすべての信徒が参加させられます。すべての者が各自の任務に忠実に携わることによって、各々に、そして一緒にキリストに献身しているのです。牧師は教会では決して王でも家来でもありません。すべての信徒がキリストの直接の家来です。キリストへのまったき献身から、それぞれの役割・任務を引き受け、担うのです。

 

この前提の上で、しかしながら、御言葉の奉仕によって教会に仕える牧師・伝道者は教会形成・運営の全体を見渡し、御言葉の教えによって、すべての信徒の賜物と働きを教会建設へと統合し、活用しなければなりません。御言葉が正しく教えられ、生かされなければ、たとえ他のあらゆる働きが効果的になされたとしても、そこで建てられるのはこの世的な団体であって、キリストの教会とはなりません。この意味で、牧師・伝道者の働きは教会形成・運営の中心ないし土台です。

 

しかしその際、牧師は、自分自身は主ではないことを決して忘れてはなりません。信徒の尊い奉仕は主に対してのみ捧げられ、主のために用いられなければなりません。牧師は間違っても、信徒のこの尊い捧げ物を決して自分の都合にしたがって、あるいは自分の名誉のために利用してはなりません。牧師は彼らの命の水、血の水を飲んではならないことを常に自覚し、自戒しなければなりません。

 

侍(さむらい)

昔、日本社会には「武士」という身分階級がありました。武士は「侍」(さむらい)とも言われましたが、侍は「さぶらふ(さぶろう)」という言葉が変化したものです。「さぶろう」は「侍(はべ)る」とも言いますが、身分の高い人のそば近くにいて仕えるという意味です。実際に武士は、平安時代中頃(10世紀)に朝廷や公家の警護集団として起こって来たようですが、その意味では初めから「仕える」存在でした。「いざ鎌倉」などと言いますが、主君の一大事とあらば、すべてを差し置いてそこに馳せ参じることです。イエス・キリストは私たちの唯一の主君です。「主の御用」と聞けば、すべてを捨て置いて、即座にこの方の下に参集し、それぞれに、そして共に仕えましょう。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 


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