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私たちは神の作品

ウイリアム・モーア

2007.4.15

 

エペソの信徒への手紙2章8−10

8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

【牛乳差しを壊した坊や】

1800年代の末ごろ、ヘンリー•ムーアハウスと言う英国人の伝道者はアメリカを巡回して伝道大会を行いました。ある町に着くと、ムーアハウス先生は地域の現状を見る為、貧しい所を尋ねました。そして、そこらを歩いていると、お店から出て来る小さい坊やを見つけました。小さいのに坊やは両手で大きい牛乳差しを持って、家へ帰ろうとしました。突然、彼は石に躓いて転び、陶器の牛乳差しが手からすべり落ちて、めちゃくちゃに壊れてしまいました。もちろん、牛乳も溢(こぼ)れ落ちました。

 

ムーアハウス先生は坊やの方へ走り、彼を立たせて、怪我がなかった事を確かめました。怪我がなかったけれども坊やはあまりの恐れて大声で泣き出しました。「ママが私を叩く、ママが私を叩く」と坊やが泣きながら叫び続けました。坊やを慰める事が出来なかったムーアハウス先生は彼を自分の手に抱いて、近くにあるお店に入り、新しい牛乳差しを買ってあげました。そして、また牛乳の店へ戻り、容器を牛乳で一杯にしてから、一緒に坊やの家へ向かいました。家の前に着くと、ムーアハウス先生は坊やを下ろして、新しい容器と牛乳を渡し、このように聞きました。「ママが今でも僕を叩くの?」そして、その涙の跡だらけの顔から大きい笑いが現れ、坊やが返事しました。「新しい牛乳差しが壊した物よりずっと良いから、大丈夫だ」と言って、心強く家に入りました。

 

このストーリは今日与えられた御言葉の譬え話になると思います。私達は恵みによりイエス・キリストによって救われると、神は罪の故に砕かれた私たちをただ何とか修理をするのではなく、私たちを造り変えて下さいます。そして、神の新しく造られた作品として、私たちは勇気と喜びを持って、心強く家へ帰る事が出来た坊やのように、この世で生かされています。

 

さて、今日の御言葉を学びましょう。恐らくこの個所は聖書のどこよりも、イエス・キリストが提供して下さる救いと信仰生活をはっきり纏めると思います。このエフェソの信徒への手紙2章8節からの三つの節に、神の貴重な真理が啓示されています。特に救いを賜った私たちの使命をも迷わずに教えて下さいます。

 

8節と9節をもう一度朗読します。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。この事は、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではなりません。それは、だれも誇る事がない為なのです。」

 

つまり、神の大きな愛の故に、罪のため永遠の滅びに向かった私たちに哀れんで、一つの救いの道を開いて下さいました。そして、その道はただ御子イエス・キリストの十字架の贖いのみです。その贖いを通して、私達の過ちと罪が赦され、私達は罪のない者として神によって受け入れられています。

 

今日の御言葉によりますと、それは始めから終わりまで神の一方的恵みのお陰であります。何故なら、私たちはいくら頑張っても、どんなに善行をつんでも、神の救いと愛を勝ち得る事が不可能です。弱くて自己中心的な私たちの力と善行は遥かに足りないからであります。

 

 

【人を見ないで】

私たち、牧師であっても、教会の長老であっても、教会全体の議長であっても、私たちは皆罪人であります。時々信者は教会の牧師や長老や役員に躓く時があります。人が良い時は皆よく見えます。しかし、私たちは牧師を見て信仰に入っていません。もし私たちが牧師を見てキリスト者になったと言うなら、牧師との関係が難しくなると信仰を止める可能性があります。

 

【神の恵み:私たちの信仰の基本】

神の救いは主の恵みと賜物として受けるしかありません。そして、その賜物を信仰によって受け取るものです。つまり、神を心から信じ、神御自身の救いと摂理を何よりも頼る事です。その道のみを通して愛する神と和解され、主の豊かな恵みを受ける事が出来ます。それは私たちの信仰の基本です。私たちが神の救いを受けるのは自らの力によるものでも、牧師や長老によるものではなく、神の恵みの賜物により、信仰によって受けるものであります。ですから、9節に記された通りに、「それは、だれも誇る事がない為なのです。」もし自分の力で神の救いを勝ち得る事が出来たら、誇る理由が十分あります。しかし、私達はただ神の恵みのみに頼りその賜物を受けるので、主の前に乞食のような謙遜を現すしかありません。救いをこのように正しく理解すると、謙遜と感謝と喜びが私たちから自然に溢れます。

 

【永遠の命と善い業を行う為に】

次の10節を見ますと、主イエスの救いのおもな目的が啓示されています。私たちがイエス・キリストの救いを受け入れると、一つの恵みとして永遠の命を賜わります。この世での歩みが終わると、私たちは主イエスの贖いのお陰で天に召され、永遠に神との直接の交わりとあらゆる祝福を楽しむ事が出来ます。イエス・キリストはその恵みをはっきりと約束して下さいました。しかしながら、それはいくら素晴らしくても、実は、その恵みは救いのおもな目的ではありません。10節を聞いて下さい。「私達は神の造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」

 

実に神が私たちを救ったのはおもに善い業を行う為です。つまり、神のお働きに生かされる為、主は私たち一人一人を選んで救って下さいました。私たちは善い行いを持って救いを勝ち得る事が出来ません。それは全く不可能です。

 

しかし、救いの結果として私たちは神の助けと導きによって善い業を行います。この世にいる間それは私たちのおもな目的と使命です。とても大事な真理を教えて下さるこの御言葉を詳しく学びましょう。

 

先ず、「私たちは神に造られたものです」と記されています。つまり、私たちは神の大事な作品です。そして、動物と違って、神は私たちを御自分にかたどって創造されたと御言葉に記されています。この世の被造物の中、人間だけが神を知る事が出来、神との交わりを楽しむ事が出来ます。また、私たち一人一人は神によってユニークに創造されました。あなたと全く同じ人が以前になかったし、現在もいないし、また将来にもいません。

 

先週のある経験を通してその事が新たに分かって来ました。私は三宮にある仁愛幼稚園の新しい園長として入園式を行いました。30人の可愛い幼少児を迎え入れました。私の前に座ったその子供達の顔を見ると私は驚きました。まだまだ小さいのに、みなの顔が違って、それぞれの性格をもっていました。ある子は恐くてお母さんから離れられませんでした。またある子は平気でその式と新しい友達を楽しみました。

 

【神の作品として新しく生れること】

ユニークな、また、大きな価値をもって御自分の作品として神は私たち一人一人を創造されました。しかも、私たちは「キリスト•イエスにおいて造られています。」神は主イエスにあって新しく生まれる事で私たちを再び造られると言う事です。新しく生まれる事を通して、私たちは神の国へと入れられます。しかし、神のお働きは、新しく生まれる事だけでは終わりません。私たちは神の作品である訳ですから、私たちが自身を神の御用の為に変えるのではなく、神が自らこの事をして下さいます。神は、私たちの命を素晴らしいものへと変える事を望んでおられます。神は一人一人の命に、主の目的と共に働きかけて下さいます。

 

10節に書いた通りに、「神が前もって準備して下さった善い業の為に、(私たちを)キリスト•イエスにおいて造られました。」つまり、神は私達の為に、既に奉仕の業を用意して下さっているのです。

そして、その奉仕の業は何でしょうか。ある時、人々が主イエスの所に来て尋ねました。「神の業を行う為には、何をしたら良いでしょうか。」これに対して主は言われました。「神がお遣わしになった者を信じる事、それが神の業である。」(ヨハネ福音書6:2829

 

【主イエスに倣って】

ですから、善い業を行うように、第一に私たちはイエス・キリストを信じ、頼らなければなりません。そして、主イエスがこの世を歩んだ時なさった事を見習って、その同じような事をするのです。すなわち、全ての事において隣人を自分のように愛する事です。

 

愛する兄弟姉妹、この神の御言葉をもう一度聞きましょう。しかし、今度はこの一節から私たち自身への語りかけを見つけましょう。

 

私は神の作品です。

私はキリスト•イエスにおいて造られました。

神は前もって準備して下さった善い業のために私を造られました。

私はその善い業を行って歩むのです。(おわり)


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