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イエスにお目にかかりたい

ウイリアム・モーア

2008.2.17.

 

ヨハネによる福音書12章20−26

 

【イエスにお目にかかりたいのです】

今日の御言葉によりますと過越しの祭りの為に何人かのギリシア人がエルサレムに上って来ました。その外国人はイスラエルの神を信じ、わざわざエルサレムの神殿まで来て、礼拝を捧げました。そして、都にいる間に彼らは主イエスの弟子フィリポにやって来て、願うことがありました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と求めました。フィリポはその嬉しいお話を聞いて、直ちに弟子同士のアンデレに知らせて、その二人は主イエスの元へ行って、ギリシア人の事を伝えたのです。

 

【イスラエルの王に】

弟子達は知りませんでしたが、その時、主イエスの受難が近付いて来ました。数日の内にイエスはユダヤ人の当局によって逮捕され、十字架で処刑されてしまいます。イエスはその事をよく御存知ましたが、弟子達にはさっぱり分かりませんでした。実は、主がエルサレムに入った時、都の大勢の住民が向かえに来て、イエスの為に熱烈な歓迎をしました。国王を迎えるように、人々はなつめやしの枝を道にひいて、ロバに乗っていたイエスを都に案内しました。更に、群衆はこのように叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:1213

 

【フィリポとアンデレは喜んだ】

一般の住民の中でイエスの人気が段々増加して、人々は主をイスラエルの王と仕立てていたのです。更に今は外国人さえもイエスを求めて会いに来ていたのです。弟子達の目から見ると全世界が彼らのリーダーを認めているようでした。ですから、フィリポとアンデレは、ギリシア人が面会で主のもとに来た時、おそらく、嬉しくてニコニコしました。やっと、主イエスが公に認められる。そして、主の人気に伴って、弟子達の立場もよくなるはずだと彼等が思った事でしょう。

 

【一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶ】

しかしながら、弟子達は主イエスの返事を聞くと、そのニコニコが彼等の顔から瞬間的に消えてしまったと思います。主は思いがけない事をおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と主が言われました。弟子達は主の返事の最初の言葉に大賛成したでしょう。確かに主イエスが栄光を受ける時が来たと思ったのです。全世界によって認められ、やっと有力者になるような時期でした。

 

しかしながら、その次の発言は弟子達にとって全く不思議でした。一粒の麦が地に落ちて死ぬ事で実を結ぶ事はいったい、どう言う意味なのかと思いました。ギリシア人の訪問との関係とは全く無いと考えました。

 

【深い真理を悟るために】

実際、イエスはそのような思いがけない発言で弟子達をしばしば驚かせました。しかし、その目的はただ弟子達を驚かせる為ではありませんでした。その発言の意味を考える事によって彼等には深い真理が悟らされました。今日、私達もその意味を一緒に考えたいと思います。そしてその意味が悟られると、主イエスの真理とキリスト教信仰の深さがよりもっと理解出来ます。

 

【種の大切さ】

主イエスの話の表面的意味は明らかです。明日の為に麦を沢山刈り入れたいのなら、種として今持っている麦をある程度を犠牲にしなければなりません。主イエスの時代農民は種を買いませんでした。収穫から一番良い穀物を残しておいて、翌年にその物は種になりました。賢い農家はいくらお腹が空いてきてもその種になる穀物を食べませんでした。明日の為に今日我慢すれば、将来に豊かな刈り入れが出来る訳です。しかし、またある農家が短期的問題を解決する為、種の分も食べてしまいました。その結果、種がない為、翌年の収穫が全くなくて大変困りました。

 

【ギリシア人の訪問は】

農業を深く理解した弟子達はその事がよく分かりました。しかし、その農業の事とギリシア人の訪問の関係がなかなか理解出来なかったのです。ギリシア人の訪問は主イエスを喜ばせると思ったのに、主はあんまり喜ばなかった様子

で、誰でもが知っているはずの種蒔きのお話を語りました。

 

実は、イエスは御自分の弟子達を見抜く事が出来ました。彼等はまだ短期的に考えていました。弟子達はイエスを「主」と呼んで、救い主として認めましたけれども、その救いの理解について欠けていました。つまり、彼等は主イエスのこの世での政権を何よりも期待しました。イエスは占領(せんりょう)軍をイスラエルから追い出し、神の国をこの世で成立する使命があったと思い込みました。そして、その国で当然、主の弟子である彼等は偉くなる予定でありました。ですから、ギリシア人もイエスの味方になったら、大変有益であると弟子達が思ったのです。

 

【十字架の道】

その反面、その時点でギリシア人への興味は主イエスにとって誘惑になりました。もちろんイエスは弟子達と人々の期待に応じて国の政権を握る力がありました。そうすると、為政者として全世界平和や貧乏と病気の廃止などを齎す事が出来ました。更に、御自身はその栄えの道を選ぶと、十字架の死の道を避けられました。しかしながら、それは自分の為の父なる神の御旨ではないと、主は分かりました。

 

【全人類の救いのためには】

その道を選んで自分を救うなら、全人類を救う事が不可能になりました。神の国は権力を持って、この世で偉くなるものではありません。 主は私達の為に、永遠の滅びから永遠の命への道を開くと言う使命が与えられました。そして、その神によって与えられた使命を果たす為に、短期的都合と人々の期待に応じる事が出来ませんでした。その代わりに、遥かにもっと素晴らしい道を選んで、永久の賜物を全人類に提供する事になりました。

 

【主イエスの犠牲は全人類の罪を贖う】

しかし、その遥かに優れた道を歩むと、主イエスは犠牲を払わなければなりませんでした。永遠の命を私達に賜るように主は十字架の道を歩む必要があったのです。私達の罪を償う為に罪の全く無いイエスは全人類の罪を御自分の身に受けて、私達が払うべき罰を払って下さいました。つまり、主は私とあなたの為に死んで下さって大きな祝福と恵みをもたらしました。やはりその意味で主は一粒の麦のお話をなさいました。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と主がおっしゃいました。一粒の麦の種は土に植えると、その一粒には犠牲になりますが、その犠牲を通して多くの実を結びます。そのようにイエス・キリストの死のお陰で計り知れない程の恵みが私達に賜るのです。

 

その故に、自ら進んで主は死の道を選択したのです。私達に命を与えるために、イエスは自分の命を失いました。御言葉に記された通りです。「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16

 

【真に自分の命を愛するとは】

主イエスは弟子達だけではなく私達にも大事な霊的な原理を悟らせたかったのです。それは今日の御言葉の25節に記されています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」同じようにマタイによる福音書に主はこうおっしゃいました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私の為に命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(10:39)

 

キリスト者もイエスを模範として自分を犠牲にする必要があります。つまり、全てにおいて自分の為ではなく、主イエスの為に生きるのです。そうすると、真の命、正しい目的と意味深い命を主から豊かに得られます。

 

【古い自分に死んで】

考えて見て下さい。もし自分の茶色の家を白に変えたかったら、新しい色をつける為に、その古い色を白いペンキで塗りつぶさなければなりません。又、健康の為に体重を減らそうとしたら、古い食生活の癖を死なせなければなりません。そうすると、もっと健全な新しい習慣が生じられます。同様に神に用いられ、周りの者に主の愛と救いの証人になろうとしたら、自分だけの自己中心的生き方は死ななければなりません。私達がいつも十字架を担うのはイエスの命が私を通して現れる為であります。

 

【主イエスの受難節を覚えて】

私達はもう既に受難節に入りました。大昔からキリスト教会はイースター、すなわち復活祭の準備の為に受難節を守って来ました。特に受難節にキリスト者は私達の為の主イエスの十字架の犠牲を新たに覚え、神の助けによってその犠牲に相応しく生きようとする時期です。私達は我儘な古い生き方を捨てて、多くの実を結ぶ為、一粒の麦のように地に落ちて死にます。そうすると、私達は真の命、永遠まで続く豊かな命を父なる神から頂きます。

 

【唯一の救い主イエス•キリストにお会いするには】

ギリシア人は主の弟子フィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。私達も彼等と同じように唯一の救い主イエス•キリストにお目にかかりたいです。主の全ての恵みを頂きたいです。今日の個所の26節に主はその秘訣を掲示して下さいます。「私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」

 

 

愛する兄弟姉妹、イエスのいるところへ行き主を見ようとしたら、主に仕え、主に従う、その道しかありません。どうか、私達の生活を通して神の助けと力によって、何よりも主に仕え、主の教えに従うように努めましょう。(おわり)


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