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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

主イエスの食べ物

ウイリアム・モーア
2008.4.20 

 

ヨハネによる福音書4章27−42

27:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28:女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31:その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32:イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33:弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34:イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしにな    った方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35:あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36:刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37:そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」39:さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40:そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41:そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42:彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当    に世の救い主であると分かったからです。」

 

【主イエスの福音宣教】

今日の御言葉は主イエスと弟子達の旅での事件を語ります。主は出来るだけ沢山の人々に福音を伝える為、巡回伝道師の生活をしていて、 家と呼ぶ所がない程、常に移動しました。その時代、一般の人は旅をする時、歩いて行きました。ローマ帝国の役人やお金持ちなどは馬車か馬やロバに乗って旅をしましたが、平民は自分の足に頼らなければなりませんでした。

 

【サマリア人の町シカル】

今日の個所は、主が弟子達と共に都エルサレムから出身地のガリラヤ地方までの約120キロの旅中の事件を記録しています。彼等はお昼頃、シカルと言う町に着いて、そこで食事を食べ、旅の疲れから少し休もうとしました。ところで、シカルはサマリア地方の町でした。そこに住むサマリア人はユダヤ人から軽蔑され、長年お互いの恨みをいだいてしまいました。その理由はおもに宗教上でした。

 

【サマリア人とユダヤ人】

つまり、ユダヤ人から見ると、サマリア人は異端者でした。彼等はイスラエルの神を拝んで、ほぼ同じ聖書を読みましたが、エルサレムの神殿の代わりにゲリジム山で礼拝して、またエルサレムにいるユダヤ教の当局を認めませんでした。更に、ユダヤ人は自分達がアブラハムの純粋の子孫だと誇りを持っていましたが、サマリア人は地元の人々と結婚した為、堕落した民族になったと思いました。とにかく、ユダヤ人はサマリア人を見くびって、そして、反対に、サマリア人はユダヤ人を憎みました。その故に、両方の民族はお互いに無視して、出来るだけ全ての交際を避けていました。例えば、旅をする時、ユダヤ人はサマリア人と接触しないように、時間を掛けても、わざわざサマリアを避けて遠回りしました。

 

【主イエスとサマリア人の女】

しかし、主イエスは違いました。サマリア人に対してその偏見をもっていなかったので、旅の時、 サマリアの町を通って、空腹と疲れの時は、そこで休みました。 そして、主は旅に疲れて町の外れにある井戸の側に座り、弟子達は部落に入り、食べ物を買おうとしました。

 

お腹が空いていたイエスは独りで弟子達の帰りを楽しみに待ちました。恐らく、彼等がどんな食べ物を持って帰るかしらと楽しみにしていたのでしょう。イエスは私たちと同じように空腹の時、美味しい物について夢想したと思います。しかし、その瞬間、人の気配を感じました。サマリアの女の人が町から出て、水を汲みに来ました。そして、喉が渇いていたイエスは汲む物がなかった為、彼女に、「水を飲ませて下さい」と願いました。その事を聞くと、サマリアの女の人は驚いて、「ユダヤ人のあなたがサマリア人の女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」とイエスに返事しました。ユダヤ人はサマリア人とはかかわる事なく、その上、サマリア人と同じ器から水を飲むと言うのは考られなかったのです。彼女は多分始めてユダヤ人とそのような普通の対話をしたかも知れません。以前からユダヤ人と接する機会があんまりありませんでしたし、ユダヤ人と会った時は、偏見と恨みをすぐ感じました。

 

しかし、このユダヤ人は違ったのです。彼は彼女を平等に扱い、また同じ器から飲むつもりでした。主はここでただ、「喉が大変渇いているからあなたに水を飲ませて下さいと言ったのだ」と返事する事も出来ましたが、神の素晴らしい福音を伝える為にその質問と出会いを用いました。ヨハネによる福音書4章10の所を見て下さい。「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませて下さい」と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えた事であろう。』

 

【生きた水】

「生きた水」の文字通りの意味は湧き出る水ですから、そのような水があったら、女の人は深い井戸から水を汲まなくてすむので、もちろんそのような水が欲しかったです。しかし、その周辺には湧き水がなかった為、彼女は懐疑的に返事しました。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、私達の父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私達に与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

 

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。

 

サマリア人の女はまだ生きた水の文字通りの意味を考え、こう言いました。「主よ、渇く事がないように、また、ここに汲み来なくてもいいように、その水を下さい。」

 

「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『私には夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』」

 

主イエスがサマリアの女の人の事を見抜かれたので、彼女はこう答えました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私達は知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者達が、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。かみは霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」」

 

女の人が言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られる事は知っています。その方が来られる時、私達に一切の事を知らせて下さいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしている、この私である。」

 

【弟子達が食べ物を】

丁度その時、弟子達が食べ物をもって、イエスのもとに帰りました。主がサマリアの女を相手にされている事を見ると驚きましたが、我慢して何も言いませんでした。そして、    28節、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来て下さい。私が行った事を全て、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」と記されています。

 

【サマリアの町の多くの人も】

主イエスは証の機会を積極的に生かして、その証は豊かに実を結びました。その証を通してサマリアの女とシカルの多くの住民も神の国に加えられました。御言葉に記されていますが、「その町の多くのサマリア人は、『この方が、私の行った事を全て言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」そして、不思議にその事件は主イエスを新たに元気づかせました。

 

【主イエスの食べ物】

弟子達は主を井戸の所に残して町に入った時、イエスは旅の為に疲れ切って休む必要があったのです。しかし、弟子達が井戸へ戻って来ると、主は生き返っておられました。また、彼等は町へ行く時、イエスは空腹をすごく覚えておられたが、帰って来た時、空腹が満たされました。同時に、主は喉が渇いていたが、弟子達が戻ると渇きがいやされました。と言うのは、弟子達が、「先生、食事をどうぞ」と勧めると、主はこう答えられました。「私にはあなたがたの知らない食べ物がある。」弟子達は、「誰かが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言いました。そして、イエスは言われました。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる事である。」

 

【主イエスの力の源】

つまり、主は父なる神から頂いたお仕事を実行したとき、大きな力と満足が与えられました。疲れても新たな力を得て、空腹してもその飢えをあんまり感じませんでした。御自分のお働きをする為に神こそが主イエスにその力と満足を授けて下さいました。イエスはこの世を歩んだ間、常に神からその力と満足を頂き、十字架までも父なる神の御業を成し遂げる事が出来ました。

 

【奉仕の良き報い】

愛する兄弟姉妹、私たちも主の御心を行うと、神はイエスが経験されたその同じ力と満足を授けて下さいます。私達皆もそのような体験があります。例えば、人助けをしてから私達はどんな気持ちになるでしょうか。体は疲れているかも知れませんが、とても気持ちの良い事です。わが家の子供達は高校性の時、休みにはボランテイアでタイとフィリピンへ行って貧しい者と共に暮らし、貧しい者の為に家を作りました。朝早くから夜遅くまで重労働をして、肉体的に大変疲れました。しかし、その旅から帰る時はいつも皆、生き生きと満たされて、帰って来ました。

 

【わたしたちの奉仕】

教会での奉仕も同じです。言うまでもないが、教会と言うのは牧師一人でするのではありません。また、長老や執事一人でもありません。教会は皆のものです。私が言っているのは建物を言うのではありません。教会は会員一人一人によって成り立ちます。教会ではオルガンの奉仕や日曜学校や食事の準備やお祈りの人や特に目に見えない色んな働きがあります。私達は「私一人くらい行かなくても良いじゃない、どうせ何も出来ないから」と思いがちですが、旧約聖書の人物ヨナ一人の不従順の為、船は嵐にあい、命の危機を迎えました。一人の人間はこのように大事であります。

 

コヘレトの言葉4章12節にこう書いてあります。「ひとりが攻められれば、二人でこれに対する。三つよりの糸は切れ難い。」私達は神に仕え、兄弟姉妹に仕え、主イエスの証を立てる事によって満たされ、喜びと力と満足も与えられます。

 

「私の食べ物とは、私をお遣わしにたった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とイエス・キリストはおっしゃいました。そして、復活の主は弟子達にこのような使命を与えて下さいました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書2021)私達も主の弟子として遣わされました。私達は希望と救いの唯一の福音に委ねられ、イエス・キリストの愛をこの世に現す者です。

 

主イエスは今日の朗読の35節にこう言われました。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヵ月もある』と言っているではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」

 

私達一人一人も神の刈り入れに参加し、その神からの力と満足と喜びを十分体験出来るように祈っております。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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