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「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12
         淀川キリスト教病院牧師 田村英典
       
     2008.8.10

 

聖書:マタイ5章(山上の説教)1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

  3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

  4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

  5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

  6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

  7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

  8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

  9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

【迫害を受けるクリスチャンの反応】

マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは310節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10「義のために迫害される」という点です。今日の1112節は10節の続きであり、補足説明と言えます。

 

しかし、少し趣を異にしている点もあります。イエスは310節の「~は幸いである」という三人称の表現をやめ、「あなた方」と二人称で語られます。そばにいた弟子たちや群衆に直接語りかけ、より具体的に教えられます。また、イエスは真のクリスチャンをこれまでと違う形で描かれます。ある人を描くのに、快活とか暗いとか元気とかという描き方があります。しかし、人生に起り来る様々なことに対して、その人がどう反応するか、という描き方もあり、これも大切です。イエスは1112節でこれを採用されます。クリスチャンであるために大なり小なり受ける迫害に、どういう反応を示すかということです。これも私達を深く探るものです。

 

【真のクリスチャンの特質】

まず、1112節で全体的に表されている真のクリスチャンの特質を見ておきます。

 

真のクリスチャンは世の人に憎まれる

第一に、真のクリスチャンはそうでない人と根本的に違っています。これは今までも何度か見てきましたが、ここでも同じです。そして異なっているために迫害も受けます。人は、小さな意見の違い位なら放っておきますが、真のクリスチャンは根本的に生き方が違うため、この世の人は必ずしもクリスチャンを良く思いません。その結果、憎しみや迫害が起きます。キリストの福音は確かに別種の人間を生み出します。そのため、家の中でも迫害や分裂が起きます。イエスは言われます。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。」マタイ10:3435

 

勿論、イエスが敢えてこうされるのではなく、結果的にこうならざるを得ないということです。今まではとにかく回りと歩調を合せ、波風を立てず、自分の生活に疑問も覚えずに生きてきた人の中で、突然、クリスチャンは人間の根本的罪の問題を重要視し、これまでの自己中心、人間中心の歩み方を180度方向転換し、神とその御心を第一にして歩み出すのですから、回りの人は驚き、怪しみ、敵意すら抱きます。ですから、イエスは10:36「こうして、自分の家族の者が敵となる」と言われるのです。これは悲しく辛いことですが、確かにクリスチャンはその生き方がこの世の人と違わざるを得ません。

 

【神の御言葉に生きるゆえに迫害される】

第二に、真のクリスチャンの生活はキリストに捕えられ支配されています。イエスは11「私のために」ののしられ迫害され、と言われます。何故クリスチャンは迫害されるのか。キリストのために、またキリストに結びついて、生きるからです。クリスチャンになる前、人は根本的には神のためでも人のためでもなく、自分のために生きています。自分が中心です。それが聖書の言う罪です。しかし、このような私たち罪人のために、主は十字架で命を献げて下さった。それにより、私たちは罪と永遠の滅びから救われた。これをクリスチャンは忘れられません。いつも感謝しています。従って、もはやかつてのように全くの自己中心に生きることはできません。

 

むしろ、今、天におられる主のために喜んで生き、その御言葉に少しでも忠実に生きようとします。真のクリスチャンは知っています。「私はもはや私自身のものではない。罪と不信仰に生きてきた古い私は、キリストと共に十字架につけられて死んだ。今生きている、否、生かされているのは新しい私であり、イエス・キリストに結びつき、キリストのために私は生きているのだ。」

 

【来るべき世を思うゆえにクリスチャンは迫害される】

第三に、クリスチャンは天国と来るべき世の思いに生活が支配されています。不信者は死と死後の世界を極力考えません。考える暇がないからではありません。自分の好きなことのためには、いくらでも時間を作ります。考えないのは、考えたくないからです。死と永遠について考えたり語ったりするのが嫌いなのです。死のことを話すと、いやな顔をします。縁起でもないと怒る人もいます。死が怖いのです。それに神を無視できなくなる。それが本質的に不信仰というものです。

 

ところが、クリスチャンは死と永遠という真面目なテーマを思い巡らします。それにより、今を如何に生きるべきかが定まってくるからです。真のクリスチャンは、永遠の天の国への思いによって生活が支配されています。ヘブライ11:1316は旧約時代の信仰者たちについて言います。

 

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住いの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るに良い機会もあったかも知れません。ところが実際は、彼らは更に勝った故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです。」

 

天国を仰ぎ見つつ、地上ではよそ者として神の前に誠実に生きる。これがクリスチャンです。

 

【ローマ帝国時代クリスチャンの迫害】

以上の特質のために、この世は真のクリスチャンにいい顔をしません。二千年前、人々があの柔和で、心清く、憐れみに満ちた主イエスを嫌ったように、地球上の如何なる所も如何なる時代も本質的には同じです。ですから、イエスは、人々はあなた方をののしり、迫害し、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせると言われます。実際、ローマ帝国時代に、クリスチャンは無神論者だと非難されました。偶像の神々を拝まなかったからです。また不道徳だと非難されました。男女が一緒に礼拝したからです。更に非国民呼ばわりされました。国と社会のために忠実に働いても、ただローマ皇帝の像を拝まなかったからです。

 

「喜びなさい。大いに喜びなさい。」

さて、イエスが一番語ろうとしておられるのは、迫害に対するクリスチャンの態度です。イエスはどう言われたでしょう。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」「大いに喜ぶ」は、「大いに」と「飛び上がる」という言葉の合成語です。「喜びなさい。飛び上がって踊るほどに喜びなさい」ということです。ここから何を教えられるでしょう。

 

【復讐するな】

第一に、仕返しや復讐はクリスチャンの態度ではありません。人は皆生れながらに自己保全に一生懸命であるだけでなく、仕返しをしないではおられない者です。しかし、主はそうなさらなかった。Ⅰペトロ221は言います。「あなた方が召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」キリストの霊をいただいている私たちも、こうでありたいと思いす。

 

【魂の平安】

第二に、迫害を受けても憤慨しない魂の状態にまで進むべきと言えます。これは更に難しいですが、イエスは言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」これは表面上、仕返しはしないものの、腹の中では迫害する人に対して煮えくり返っているという状態ではありません。単なる怒りの抑圧では、イエスの言われるようにはなれないでしょう。でも、イエス御自身は実に感情豊かな方ですのに、もはやどんな中傷や迫害にも傷つけられることのない魂の状態にあられました。

 

主の御霊を頂いていたパウロも、フィリピ115以降などから分りますが、露骨な悪意や闘争心に対しても影響されることはありませんでした。彼には、自分の名誉ではなく、とにかくキリストが人々に伝えられることが最大の関心事だったからです。「喜びなさい。大いに喜びなさい」とは、そういうことです。

 

【自己を哀れまないこと】

第三に、自分自身を哀れまないことです。「何故私がこんな扱いを」という自己憐憫と被害者意識は、私たちのすぐ陥り易い態度ですが、これも主の御心ではありません。主は「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われる。これが真のクリスチャンというものです。

 

【迫害する者のために祈る】

第四に、迫害する者のために祈る者でありたいと思います。主は言われます。マタイ544「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。主ご自身そうであられました。十字架上で主はご自分を十字架につけた者たちのために祈られました。ルカ2334「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

クリスチャン作家、三浦綾子さんが「蟹工船」の作者小林多喜二の母親を扱った小説『母』を書かれた時、嫌がらせ電話がよくかかってきました。その頃のことを書いた『この病をも賜(たまもの)として』の中で、彼女はこう記しています。「連日いやがらせ電話。受話器をとるとなにも言わずに切る。どこからか監視されている感じ。<汝、責むる者のために祈れ>と聖書にはあり。積極的に祈るべし。」

 

【何故クリスチャンは喜べるのか】

しかし、何故クリスチャンは喜べるのでしょうか。最後にこれを見て終ります。

 

無論、迫害そのものを喜ぶことはできません。迫害という辛い状況にあっても、何故真のクリスチャンは、なお喜べるのかということです。

 

預言者たちも迫害された

第一に、キリストの故に迫害に遭う時こそ、クリスチャンは自分がどういう者で、どんな恵みの内にあるかを、ハッキリ確認できるからです。12「あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

旧約時代の偉大な預言者たちは神に選ばれ、超自然的な方法で神の言葉を聞き、それを人々に語りました。実際に生ける真の神を体験し、神に真実に仕えました。そのために迫害され、殺される者もいました。しかし、確実に言えることは、彼らがその地上の生涯を終えて今は神と共にあり、天国の栄光を楽しんでいることです。クリスチャンも主に結ばれていますので、同じように言えます。つまり、迫害は、私たちが偽物ではなく本物のクリスチャンであり、偉大な預言者たち同様、天における栄光を必ず受ける者とされていることの徴、証拠なのです。

 

【迫害はクリスチャンを練り清める】

第二に、迫害はかつての偉大な神の僕である預言者たちのような清い人格、品性に、クリスチャンを練り清め、人格的完成に至らせます。辛いいやな迫害を通して、私たちは自分の根本的な信仰を問われます。不要なもの、不純なものが取り去られ、罪から解放され、生も死も一切を支配される神にのみますます全てを委ねる者とされ、一切の希望と喜びを神に置く堅固な魂にされます。

 

ローマ515は言います。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

ヤコブ123も言います。「私の兄弟たち、色々な試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなた方は知っています。」

 

天には大きな報いがある

第三に、地上の生涯の終った後、天の御国における報いがハッキリ約束されています。イエスは言われます。12「天には大きな報いがある。」天国に入れるだけでも素晴らしいのに、迫害で犠牲を払った者には、それに比例して更に偉大な素晴らしい喜び、栄光を天の父が用意しておられる!それは純粋に父なる神の愛から出る褒美です。そういうわけで、イエスは言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」

 

【主より賜る永遠の祝福はどんな迫害にも勝る】

迫害は辛くていやなものです。できれば避けたい。でも罪の世にあって、これを完全に避けることは不可能です。しかし、どんなにいやなものであっても、これは過ぎ行く一時的なものに過ぎず、イエス・キリストによる永遠の栄光と祝福に指一本触れることもできません。また、イエス・キリストにあっては、どんないやなことも無意味なものは一つもありません。迫害さえも、私たちが本当は何者で、何に属し、どこに向かって歩んでいるかを教え、確認させ、保証するものに他なりません。ですから、イエスは言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」このことを改めて覚え、共に励まし合い、また十字架で命を献げ、復活し、今や天と地の一切の権能を御父から授けられ、ご自身の御許しがなければ、私たちの髪の毛一本地に落ちないほどに全てを支配しておられる主に、一切の信頼を献げて歩んで行きたいと思います。(おわり)

 

 

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