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なくてはならないもの:信仰

ウイリアム・モア

2008.10.19

 

ルカによる福音書18章35−43◆エリコの近くで盲人をいやす 35:イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36:群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。

 37:「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38:彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39:先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 40:イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41:「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42:そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43:盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエス    に従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 

 

 

【生きるために必要なもの】

生きる為に私達人間には生理的要求があります。それは身体の働きに絶対に必要であるから、なければ、あるいは不十分であるなら、私達の命さえも危なくなります。そのなくてもならないものとは、呼吸と、飲み物と食べ物と排泄と睡眠と住みかです。誰でも本能的にそれらを求めます。だからこそ喉が渇いたら飲み物を欲しがり、お腹が空いたら食べ物を探し、眠くなると微睡みます。私達は生まれつき、その生理的ニーズがあって、そのものを省いては私達の命が危なくなります。

 

【霊的なニーズ】

それと同じくらいに私達人間には、もう一つ霊的なニーズがあります。そしてそれがなければ、私達の魂は衰えてしまいます。生理的に命があっても、その霊的なものがなければ、豊かに生きらません。どんなに物質的に恵まれても、その霊的なニーズが満たされなかったら、私達は空しく、不安と不満でいっぱいです。いくらおいしい御馳走を前にしても決しておいしく頂けません。天地万物の造り主である神は人間を創造した時、私達が生理的なニーズを求めるだけでなく、同時に霊的なニーズも求めるように私達を造られました。そのなくてはならない霊的なものは何でしょうか。

 

【信仰と、希望と、愛】

使徒パウロはコリントという町に住んでいる信徒に手紙を書きました。そして、その手紙にこのように書きました。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13:13

 

【なくてはならない、いつまでも残るもの】

信仰と希望と愛。やはり、そのいつまでも残るものは私達人間の魂にとって、なくてはならないものです。それがなければ私達の魂は飢え、霊的に倒れる恐れがあります。

 

【なくてはならない霊的なもの、信仰】

今日はなくてはならない霊的なもの、信仰を一緒に学びたいと思います。そして、次とその次の説教は希望と愛を扱いたいです。その三つの賜物により私達の魂を養い、主イエスが授けて下さる「豊かな命」をもたらして下さいます。主はこう言われました。「わたしが来たのは、彼らが命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネによる福音書10:10

 

そして、その豊かな命の鍵は何よりも信仰と希望と愛であります。

今日の御言葉は、なくてはならないもの、「信仰」を教えて下さいます。主イエスとある盲人の出会いを通して、信仰の基本を伝えています。

 

【盲人の物乞い、バルティマイ】

イエスは御自分の苦難を受ける為に弟子達と共に都エルサレムへ上る途中、エリコという町を通らなければなりませんでした。そして、その町の外れにバルテイマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。マルコによる福音書に於けるこの同じお話には彼の名前が載ってありますので、彼の名前、バルテイマイが分かります。

 

【盲人の運命】

ところで、盲目はその当時のパレスチナには大きな問題でした。病気や事故などの故にある地域の人口の一割ほどが盲人でした。そして、治療方がなくて、盲人になったら死ぬまでの運命になりました。更に、盲目は本人の罪、あるいはその両親の罪の故であると一般的に思われていましたので、盲人は廻りの者からの同情を引くどころか、却って無視され、軽蔑されました。そして彼らは働く事が出来なくなり、大抵物乞いに落ちぶれました。

 

【イエスが通られる】

ですから、その日、いつもと同じようにバルティマイは道端に座り、物乞いをしていました。そして、突然、彼は群衆の騒ぎを聞きました。群衆が彼の所を通るのは稀ですから目が見えないバルティマイは尋ねました。「これは、いったい何事ですか。そして、「ナザレのイエスのお通りだ」との返事が帰って来ました。バルティマイはイエスの事について沢山聞いた事がありました。特に、主の驚くべき癒しの業を聞いた事がありました。主は足の不自由な人や、悪霊に取りつかれている人や、出血で悩む者や、目の見えない人なども瞬間的に治す力がありました。そして、ある人はその方こそが待ち望んだイスラエルの救い主だと言っていました。そのイエスこそはバルティマイのすぐ前に来られました。盲目を癒せる唯一の人が近づいて参りました。ですから、バルティマイはその一生のチャンスを掴んで、大声で、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。 

 

【ダビデの子イエスよ】

意味深いことですが、バルテイマイは主イエスを呼んだ時、「ナザレのイエス」と声かけしませんでした。先程、彼は群衆が通って行くのを耳にして、「何事ですか」と尋ねた時、その返事は「ナザレのイエス」でした。つまり、出身地ナザレという町をイエスの名前に付けました。しかし、バルティマイはイエスに声をかけた時、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。旧約聖書に言う「ダビデの子」という人物は待ち望んだ救い主でした。ですからバルティマイはイエスを呼ぶ時その表現を用い、彼の信仰告白になりました。主イエスこそは旧約聖書に約束された唯一の救い主であると公に表明しました。そしてそのお名前を呼ぶと同時にその方は自分の病気を癒す力があると告白しました。つまり、主の御許と力を心から信じたのです。主イエスのみは自分を救う事が出来ると確信しました。

 

その確信がありました。しかし、それだけではなく、主イエスについて信じた事を自分の行動で実行しました。バルティマイは自分自身を救う能力がないと完全に分かって、人間を救う力がある主に、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で懇願したのです。

 

バルティマイがそう言うと廻りの人々は彼を黙らせようとしました。盲人の乞食があまりうるさいから恥ずかしいでした。特に他所の人、つまりイエスとその弟子達の前にその事は、自分の町エリコに恥をかかせるので彼を静かにさせようとしました。しかしながら、今日の個所によりますと、バルテイマイは「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」

 

主イエスの御許と力を徹底的に信じ、彼は大胆にその信仰を実行しました。イエスを見る事が出来なかったけれども、主を信じ、離れないうちにどうしてもその憐れみを受けたかったのです。ですからバルティマイは自分を黙らせようとした声を無視して、主イエスから返事を頂くまで、叫び続けました。

 

【イエスは立ち止まって】

イエスはバルティマイの声を無視しませんでした。逆に、その信仰を認めて彼に聞きました。今日の御言葉によりますと、イエスは「立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』」

 

【何をしてほしいのか】

主が乞食のバルティマイを相手にすると、廻りの皆はびっくりしたでしょう。そして、その二人の対話を聞く為、群衆は静かになりました。バルティマイが主の元に連れられるとイエスは彼に聞きました。何をしてほしいのか。」主イエスはもちろんバルテイマイの欲しいものがもう既に分かりましたが、彼の口からその返事を聞きたかったのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです」とバルティマイが答えました。

 

そうすると、イエスは言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」バルティマイの信仰に答えて主は彼の願いを叶えて下さいました。「盲人はたちまち見えるようになり、神を誉め讃えながら、イエスに従った」と記されています。

 

バルティマイは自分の状態と自分の無力を認めました。つまり、自力で自分を救う事は全く不可能であるとよく分かりました。そして、その代わりに主イエスの御許と力を心から信じ、頼りました。次に、彼は大胆にその信仰を実行しました。つまり「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」との願いが答えられるまで、続けて叫びました。そして、主イエスの救いの御業を頂くと廻りの者に証を立て、その時から主に従いました。

 

【なくてはならぬもの、信仰】

愛する兄弟姉妹、私達は何よりもそのような信仰が必要であります。なくてはならないものです。この世に生きるとき、私達の無力さを毎日のように感じます。自分の力では救いがありません。神と隣人に対して罪を犯し、失敗が多いのです。使徒パウロが言ったように私たちは「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。...私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章19、24)

 

主イエスのみは救いの力があります。十字架で私達の罪の為の罰を御自分の身に受け、私達を神と和解して下さいました。つまり、私達に代わって、罪の全く無い主は罪の報酬を払って下さり、私たちは神の子供として受け入れられました。そして、愛する神は私達と共に歩み、助けて、慰めと力と希望を豊かに授けて下さいます。更に死んでも、主は私達を永遠の命に復活して下さいます。主によって完全にさせられ、永久まで主と共に生き、その喜びを楽しみます。

 

バルティマイはその救いを頂きました。そして、私達一人一人も信仰によって救われます。愛する神の子供として支えられ、永遠まで生きる力が与えられています。それはなくてならないもの、信仰の賜物です。私達はバルティマイのように主に、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と心から願うと、神は必ず私の祈りを聞いて、私達の信仰を助けて下さいます。どうか、私達一人一人もそのなくてはならないもの、信仰を頂くように祈っております。(おわり)

 

    

 

 

 

 

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