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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

喝采が終わった時

ウイリアム・モーア

2009.3.29

 

ルカによる福音書19章28−40

◆エルサレムに迎えられる

 28:イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29:そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30:言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31:もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32:使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33:ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばを

    ほどくのか」と言った。34:二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35:そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36:イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

 37:イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38:「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」

 39:すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40:イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

 

【ローズボウル•パレード】

私達人間はなかなかフェステイバルパレードを好む心があります。その理由は色々あると思いますが、恐らくパレードは何よりも刺激的で興奮させるものなので、パレードがあれば、たくさんの人々は集まって来ます。今度アメリカへ行く、ロサンジェルス近郊にあるパサデナという町はお正月のローズボールパレードでとても有名なところです。実況テレビでアメリカ全国によく知られているパレードです。昔になりますが、私達がパサデナに居住していた時、私達はそのローズボウル•パレードを直接に見る事が出来ました。ある人はパレードを見る為、一番良い場所を得るように、大晦日の夜からパレードの道の側で寝泊まりしていました。また、特に良い場所は、席があって切符が高い値段で売られていました。幸い私達は、切符を内の家族にプレゼントしてもらい、夜中から場所を確保する必要がありませんでした。とにかく、その有名なローズボウル•パレードをよく見る事が出来ました。そのパレードの巡行用の山車は特別にゴージャスでした。ローズ•パレードと呼ばれるので、薔薇と様々な他のお花で飾って、100台程の山車がありました。また数十の優れた楽隊もパレードに参加しました。更に、幾つかの素敵な乗馬グループもパレードに出ました。次々と数時間にわたり、ローズ•パレードは忘れられない素晴らしい光景を呈していました。

 

【子ロバに乗って登場された主イエス】

私は、華やかなパレードを見ていると、いつも今日の御言葉の個所を思い出します。そのパレードはゴージャスな山車と素敵な楽隊と素晴らしい乗馬グールプが登場しませんでした。実は、多くの観客があっても、そのパレードに出た方は一人しかいませんでした。そして、そのお方は都のエルサレムに入ると、元気な馬に乗る代わりに、まだ誰も乗った事のない小さな子ロバに乗っていたのです。その方こそは神の独り子またこの世の唯一の救い主イエス・キリストでした。

 

【ゼカリアの預言】

エルサレムの住民が子ロバに乗っていた主イエスの珍しい光景を見ると、その意味がすぐ分かりました。それは旧約聖書にはっきりと載っていたのです。神の預言者ゼカリヤがその日のパレードをこのように予告しました。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って」(ゼカリヤ書9章9)と記されています。

 

【民衆が期待した救い主(メシア)像】

人々は子ロバを乗っている主イエスの姿を見ると大喜びました。皆はイエスの奇跡と驚くべき癒しの業と権威ある教えを聞いて、もし誰かイスラエルを救う力があるとすれば、イエスがその方であると信じたのです。やっと、預言者を通して、神様が約束された救い主が現れた。そして、その救い主は、きっと敵の故に悲惨な目にあっているイスラエル国を再興させ、ダビデ王のような輝かしい支配をもたらすに違いない。救い主はイスラエルの国王になり、国の自由と富とプライドを復興して、全く新しい恵みの時代を招来する。王は御自分の軍事的力と権力を振るって、イスラエルの救い主になる。ですから、子ロバに乗って登場されたイエスの姿を見ると、都エルサレムの住民は大喜びで主を出迎えました。そして、彼等の嬉しい気持ちと期待を現す為、人々は自分の外套を脱いで、道に敷き、子ロバに乗っていた主イエスにその上を通らせました。

 

更に、人々は大声で詩編を引用して神を賛美し始めました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と叫びました。「主の名によって来られる方、」つまり神からの救い主イエスが現れると、群衆は嬉しくて堪らなく、 割れるような喝采をして主を大歓迎しました。

 

【イスラエルの指導者達の反応】

このパレードの光景を見たイスラエルの宗教指導者達、つまりファリサイ派の人々は驚きあわてました。主イエスはエルサレムの住民によって救い主として受け入れたら、ファリサイ派はもちろん自分の高い地位が失われます。いつの時代においても、人々は自分の地位を守ろうという意識が非常に強い訳です。ですからこの田舎の先生イエスが神から遣わされた救い主だなんて信じたくなかったのです。更に、イエスの行動はただ在留ローマ帝国当局の嫌疑を招いて、その圧政がもっと厳しくなるとファリサイ派の人々は恐れました。ですから、ファリサイ派の人々は主に向かってこう言いました。「先生、お弟子達を叱って下さい」と願ったのです。結局、「群衆を黙らしてくれ」との命令でした。しかし、主イエスは彼等の声に応じませんでした。却ってこう言われました。「言っておくが、もしこの人達が黙れば、石が叫びだす」とはっきりと返事しました。すなわち、「人々は私を救い主として受け入れるのは正しいです。私こそが預言者が預言したた『主の名によって来たる者』である。人々が黙っても、私の真理を抑えられません」と言う事です。

 

【救い主として歓迎を受けられた主イエス】

主イエス・キリストはこのように都エルサレムにパレードで迎えられました。救い主として認められ、群衆の賛美を受けて、まことに素晴らしい歓迎になりました。人々は自分の外套を脱いで主イエスの道を飾る為に地面に敷きました。救い主を迎えた彼等は喜びに踊って賛美を叫びました。それはその日の喜ばしい姿でした。

 

【喝采の果てに】

しかし、愛する兄弟姉妹、数日後どうなりましたか。実は、その日、主の賛美を一生懸命に叫んだ同じ群衆はしばらくしてから他の言葉を叫ぶようになりました。その言葉を御存知ですね。そうです。それは、「十字架につけろ、彼を十字架につけろ」と言う恐ろしい呪いの言葉でした。

 

あれほど群衆は主を賛美していたのに、急に呪いに変えたたのは、いったいどうしてでしょうか。実は、主イエス・キリストは救い主として天から送られましたが、群衆が主の使命を誤って受け取りました。つまり、彼等の間違った仮定の上に主の使命を決定しようとしました。主イエスは王でしたが、政治的な救い主ではありませんでした。主はこの世の大軍を立て、イスラエルの敵を国から追い出すという使命を神から与えられませんでした。主イエスがおっしゃったように、「私の国は、この世には属していない。」

 

【主イエスの真の使命】

主の使命は政治的な使命よりも遥かに大きなものでした。実際に、イエス・キリストは子ロバに乗って、エルサレムに入った時、政権を覆すつもりではありませんでした。却って、主は十字架の苦しみを受ける為に都に上りました。その使命が父なる神から与えられ、最後までその使命に忠実に従うつもりでした。なぜなら、その使命は全人類に最も素晴らしい恵みになり、比べることのできない祝福をもたらして下さるからです。

 

【苦難の僕の預言】

主イエス・キリストの使命は旧約聖書に預言されていたのです。イザヤ書53章3節の所を見て下さい。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺しつらぬかれたのは私達の背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎の為であった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼が受けた傷によって、私達は癒された。私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠リ場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰か思いめぐらしたであろうか、私の民の背きの故に、彼が神の手にかかり、命ある者の地からたたれた事を。」

 

【彼が刺し貫かれたのは私達の背きの為】

主イエス・キリストはこの世の王として天から降りませんでした。却って、私達の僕として、また私達の代わりに苦しみを受ける僕としてこの世に降りました。イザヤ書に記されたように、「彼が刺し貫かれたのは私達の背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎の為であった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼が受けた傷によって、私達は癒された。」(53章5)。

 

【神の子羊】

主イエスが御自分の苦難の道を人々に知らせると、彼等は喜びませんでした。そのような救い主はいらないと思ったからです。この世の政治的、軍事的征服者にならず、人々の期待に応じなかったので、彼等は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。彼等は、生け贄になる子羊のような救い主は欲しくはありませんでした。ですから、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました。その当時の人々は主イエスの使命を誤解して、怒って、主を責めてしまいました。

 

【聞く耳のあるものは聞きなさい】

私達は本当の事を聞こうという姿勢を持っていますか。人々は耳触りのよい事を求めています。少しでも自分が聞きたくない事は受け入れません。やはり聞く耳を持つ必要がありますね。

 

今、私達はどうでしょうか。主イエス・キリストの使命と力が本当に分かりますか。みなさんもイスラエル人のように間違いの期待を抱いてここに集まってるのではないですね。

 

【犠牲的愛】

愛する兄弟姉妹、主イエスの使命と力は犠牲的愛にあります。その犠牲的愛は私の代わりに罪の報酬を全部払って下さいました。その犠牲的愛は私の罪を完全に赦して、私を神の子として受け入れて下さいます。その犠牲的愛は私の為に十字架で死に、永遠の命を賜りました。その犠牲的愛は私に模範を示し、その道のみが真の命と平安に至ると教えて下さいます。その犠牲的愛は私達一人一人にこう言います。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る。」(マタイ16章24−25)。

 

どうか、この受難節を通して私達一人一人も主イエス キリストの犠牲的愛を心から受け入れ、そして、私達の生活にそのような愛を反映し、日々が主にあり勝利出来る事を主の御名によってお祈りいたします。(おわり)

 

          

 

      

 

 

 

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