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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

妥協のない伝道のために

川瀬弓弦

2009.5.3

ガラテヤ1610

◆ほかの福音はない 6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなに    も早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。7:ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。9:わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

 

【人の目を気にする自分】

私は人がどう自分を見ているのか、どんな評価をされているのか、ということが常に気になります。今この場に立ちながら、すでに人の目が気になります。これは私の弱さです。人の目が気になるということは、私の言葉や行動が自分の思いに反して左右されやすいということです。妥協をしやすいということです。

 

【妥協すること】

しかしこれは私だけの問題ではないということは、はっきりと言えます。付き合いのために好きでもないお酒を飲む、友人を失わないように同じ格好をし、同じように話す。妥協することは世界で生き抜いていくために、すべての人にある程度共通し、受け入れられている手段であると思います。

 

【福音宣教に妥協はない】

しかし、たとえ妥協することが社会でより良く生きるために有効な手段であったとしても、決して妥協してはならないことがらも私たちクリスチャンにはあります。キリストの福音を世に宣べ伝える、という私たちに託された最も尊い働きについてパウロは10節で問いを投げかけています。10「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 

私自身説教を作るたびに考えることです。この説教によって人の目ばかりを気にしていないだろうか?私は人に喜ばれることを語ろうとしていないだろうか?もしくは自分の考えを人に押し付けようとしていないだろうか?2000年前に起こったキリストの死と復活という福音が、時代も文化も国も違う日本においても、その力は変わらない、ここに唯一の信頼をおいているかどうか、という問いが投げかけられています。

 

ガラテヤ教会に対するパウロの落胆

 ガラテヤ教会に挨拶を終え、早々とパウロの口から飛び出てきた言葉は「私は呆れ果てている」です。パウロの手紙は挨拶から始まり、それから教会に対する感謝の言葉をのべるのが普通でした。ところがガラテヤ教会に対してはそうではないのです。今の教会の状況を見るなら、呆れてものも言えない、パウロがどれほど落胆しているのか、それをよく表しています。

 

【他の福音】

その原因となったのが「他の福音」です。「他の福音」と呼ばれるものが教会に入ってきたことも問題なのですが、それ以上に「他の福音」と呼ばれるものに教会が乗り換えてしまったこと、つまり鞍替えしたことに対する驚きと戸惑いの言葉です。

 

【異邦人にも割礼が必要か】

ガラテヤ教会での鞍替えが起こった原因は、詳しくは触れませんが、救われるために異邦人も割礼を受けるべきか否か、という一つの問いでした。「ある人々」とありますが、彼らはおそらくユダヤ教の伝統に熱心なユダヤ人でした。彼らは「パウロはキリストを信じるだけで救われると説いていたようだが、それだけでは足りない。割礼を受けなければ救われない」とガラテヤ教会を惑わしたようです。

 

割礼と無縁な私たちの耳にはささいなことに聞こえます。またガラテヤ信徒にとっても小さな違いでしかないように聞こえたのかもしれません。割礼など、思い立てば誰でもできてしまうようなことです。しかし妥協は、こういう深く考えなくとも誰でも出来てしまうことから始まりやすいのではないでしょうか?小さな変化がどれだけ内面に大きな影響を与えるのか、ということがなかなか見えにくい、ここに落とし穴があると思います。

 

【福音に敵対する他の福音】

一見福音のように見える、そのような小さな変化であったとしても、それはもはや福音ではないのです。パウロは7節において「ある人々がキリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」と言います。福音が全く正反対の性質のものに造り変えられてしまった、つまり福音に敵対する全く別のものに変わってしまったのだ、とパウロは言います。キリストの福音に少しでも人間的な思いによって手が加えられてしまうのなら、それはもはや福音でもなんでもなくなってしまうのです。

 

もっと恐ろしいことが言われています。6節においては、それは「キリストの恵みへと招いて下さった方から、離れる」ことだと説明されています。「離れる」とは背教する、神に背を向けるという意味です。なぜ鞍替えが背教行為だと言われるのでしょうか。

 

【救いは神の一方的恵み】

それは罪に溺れ、罪に死んでいたために、自分の力で神に立ち帰ることも、悔い改めることもできなかった私達が救われたのは、神の一方的な憐れみによるからです。主イエス・キリストの尊い贖いの業によって、神様は私達を救いへと招いてくださったからです。ところが、人間的な思いに歪められた「他の福音」へ鞍替えをすることは、神様の憐れみと恵みを自分達の行いにおいて薄めてしまう、またもう一度神様抜きで生きて行こうとすることなのです。救いの御手を振り払い、神様に背を向けるのなら、最後には神様から離れていってしまうのです。

 

【パウロの悲しみ】

あなた方のしていることは神に対する裏切り行為だ、とあきれ果てるパウロは彼らを非難するのですが、非難だけには終わらない深いパウロの別の感情があるように思えます。それは「他の福音」にこんなにも早く乗り換えてしまったガラテヤ教会の兄弟姉妹達に対する深い失望感ともいえるものです。おそらくパウロはガラテヤ地方で命がけで福音を宣べ伝えました。その実りが異邦人が集まる教会でした。ガラテヤ教会はパウロにとってどの教会にも劣らないほど、親しみがあり、おそらく我が子を育てる思いで熱心にキリストの福音を教えた教会であったと思います。

 

【自分のこどものこと】

時折まだ小さい我が子、志恩(シオン)を見て、将来のことが不安になることがあります。志恩が大きくなってぐれたらどうしようか、反抗して家出をする子供になってしまったどうしようか・・・そんなことを考え始めたら寝られなくなることがあります。少なくとも父親、母親の経験を持つ人には共感していただけるのではないでしょうか。愛を持って育てたはずなのに、親として信仰の善い模範として生きてきたはずなのに・・・「こんな子に育てた覚えはない」この決り文句がただの言い訳でなければ、我が子が非行に走り、親から離れていく姿を見たなら、誰にとってもショックは大きいはずです。

 

【ガラテヤ教会の危機】

ガラテヤ教会の心は信仰の親とも言えるパウロから離れ去り、完全に彼らの心は「他の福音」へと傾いていました。こんな信徒の姿を見たパウロはどれほど驚き、困惑し、また失望したでしょうか。「こんな子供に育てた覚えはない」これがもしパウロの言い分であれば、本当にそうです。パウロはまさに今大きな危機に直面しています。崩壊寸前の、今にも空中分解してしまうかもしれないガラテヤ教会を目の前に大きな決断が迫られているのです。

 

ガラテヤ教会が何故、そしてどのように福音に妥協してしまったのか、ということを考えることも大切です。しかし今朝私達は、大きな危機に直面した教会がなすべき決断をパウロの姿から読み取りたいと思うのです。

 

【教会に決断が迫られる時】

今日において教会もまた様々な危機に立たされています。ルーマニアのある教会を訪れた時の話です。町で一番大きな教会の一つで、千をゆうに越える席が設けられています。かつてはこの教会にも人が大勢集まっていたそうですが、今では数百人程度まで信徒の数は減り、礼拝はガラガラという印象でした。牧師が信徒を目の前に教会学校に数人しか子供が集まらないことを涙ながら嘆いていた姿がとても痛々しかったことを覚えています。

 

日本の教会もどうでしょうか?教会から若者や子供が離れ、高齢化が進んでいる、数年の間に引退する牧師が大勢いる、こんな話を聞くたびに私は危機感を覚えます。なんとかしなければ、そう思わされます。

 

【人間中心の社会】

今日の社会や文化のあり方も、教会の伝道を不安にさせる要因となっています。究極の真理というものや、善悪の規準と言われるものを極端に嫌う人々は、自分の内にこそ真理がある、善悪の基準はあると主張します。彼らは、聖書のみ、キリストのみ、という私たちの信仰は視野が狭い、排他的だ、と非難するのです。

 

【妥協しない伝道】

このような社会の中で伝道をすることには必ず失敗や失望、挫折が伴います。うまくいかないことのほうが多いのです。そして真面目に教会の将来を、伝道を考えれば考えるほど大きな決断を迫られます。教会に人が溢れるのを見たい、若者が熱心に集う教会を見たい、子供から大人まで熱心に教会に仕えるのを見たい。誰もが持つべき切実な願いです。しかしこうした願いを実現するために、教会が、自身がこの世との接点で福音を妥協し、「他の福音」を作り出してしまったケースが多いのです。若者が聞きやすい福音という名目で、罪の悔い改めの必要性が全く語られない福音が実際に存在します。また経済的祝福を語っても、自分の十字架を背負ってキリストに従う必要を語らない「他の福音」を持つ教会もあるでしょう。

 

私達にも全く分からない話しではないと思います。もはや他人事ではありません。私自身も危機に立たされ、絶望にかられ、どうしようもない挫折を経験するなら、一体どうするかと考えることがあります。福音だけに頼る理由や必要はあるのかどうか。少しくらいなら、人間的な要求に耳を傾けてもよいのではないか。結局人が教会に集うようになれば、すこしくらいの妥協は許されるのではないだろうか?こうした葛藤を覚える時が必ずあると思います。

 

他に福音はない

 パウロはガラテヤ教会の危機を目の前にパウロが下した決断がこの手紙です。ガラテヤ書に一貫しているのは、この世にも、ガラテヤ教会にも、また偽教師にもまったく妥協しないパウロの姿です。失望の真っ只中で、じゃあガラテヤ教会の言い分も少しは聞いてあげようか、とは言わないのです。偽の教えを「他の福音」と呼ぶことを許容するガラテヤ教会に対して「他の福音」などというものはない、と断言します。何がパウロを捕らえて離さないのでしょうか?何がパウロをここまで福音にこだわらせるのでしょうか?

 

【呪い】

この箇所で最も印象に残る言葉、それは「呪い」であると思います。この言葉は二度も繰り返されています。神に呪われた者の行方は誰も想像したくないものです。神から完全に切り離されること、これ以上の苦しみは他にありません。「他の福音」をもってガラテヤ教会を惑わした偽教師たちに向かって「呪われよ」と言いますが、これはただの脅しというような響きではなく、実際に呪いの宣告であるとも言われています。しかも9節で「私は前にも言っておいたように、また繰り返して言います。」とありますから、これが初めてではないようです。「私は何度でも呪いの宣告する。」この福音のためなら何度でも人を呪うこともいとわない。しかも、「私たちであっても、天使たちであっても、私たちから受けた福音に反する福音を宣べ伝えるなら呪われよ!」と自分自身にも呪いの警告を突きつけるのです。これが福音に対するパウロの熱意です。パウロはこの福音に命を賭けていました。パウロが命をかける理由はどこにあったのでしょうか?それは主イエス・キリストがパウロのためにまず、ご自分の命を捧げてくださったからです。本当は教会を迫害するパウロが呪われるべきでした。

 

【主イエスが呪われた】

しかしこの迫害者パウロの代わりに、主イエスが呪われてくださったのです。このパウロを主イエスはダマスコ上で顕れ、この福音を全世界に宣べ伝えるようにと、パウロを召してくださったのです。主イエスご自身の命という尊い代価と引き換えに、パウロが「キリストの僕」された。だからこそ、これほどまでパウロを憐れみ、愛してくださる主イエス・キリストから目を背け、人の目を気にしてキリストの十字架の福音を妥協するようなことがあれば私自身も呪われよ。そのような私はもはやキリストの僕でもなんでもない、自分は神の敵対者である、と自分自身にも迫るのです。

 

【妥協しない伝道への力】

 教会の伝道において挫折をしたり、また学校や社会での個人的な証の場において家族や友人が耳を傾けてくれない。そのたびに悪魔は私たちを惑わして、福音を妥協するようにと迫ってきます。この社会ではキリストの福音は通用しない、この文化に生きる若者には福音は難し過ぎる、家族や友人が喜ぶことを追い求めよ、そうすれば人は教会に集まる。私たちがこのような誘惑に決して屈してはならない理由をパウロと私たち自身を重ね合わせて考えてみたいのです。

 

【キリストの犠牲によって贖われた私たち】

2000年間教会はこの同じようにキリストの福音に命を賭けてきました。時にはパウロの呪いの言葉さえ用いながら、十字架というとんでもない代価によって「キリストの僕」にされているという自覚を常に持ってきました。私たちもキリストの僕です。キリストの僕として私たちを買い取るために払われた代価は十字架の苦しみと死でした。もはやキリスト以外を主人とは呼べない、それほどの代価を払って私たちは買い取られました。そしてこの「福音」に仕えるよう召されている僕なのです。この現実に常に引き戻されたいと思うのです。これほどまでに私を憐れみ愛してくださったキリストの福音から目をそむけ、かえって人を喜ばし、人をへつらうようなことをするなら私自身も呪われよ、と自分に迫る。またこの福音のみに命をかけ、生涯を捧げる、それほどのパウロの熱意を私達が持つ同じ理由を私達もまた頂いているのです。

【教会発展の歴史】

また私たちが救いの歴史に目を向けてみればどうでしょうか。私たちはガラテヤ教会がその後どうなったのかは知らされていません。しかしはっきりとしていることは、パウロが決して妥協しようとしなかった福音は世界に宣べ伝えられ、数え切れない人々を救いに至らせたということです。それぞれの時代の国や文化で困難があり、迫害があり、福音への妨害が絶え間なくあったのです。宣教師の墓場とも称される日本においてもどうでしょうか。ここに集められた一人は性格も、年齢も、環境も違う全く別々の価値観これまで生きてきたわけですが、2000年何一つとして変わらず、文化にも時代にも妥協しないキリストの福音によって救われているという事実があります。私たちにキリストの救いと永遠の命が与えられている、この事実こそ福音が今日においても力強く働いていることを証ししています。救われいている私達は、この事実の生き証人なのです。だからこそ人の目を気にして、また人の評価を気にして福音を宣べ伝える必要はまったくないのです。「別の福音」によって世界を魅了する必要など全くないのです。私たちが集中すべきお方は、罪に死んでいた私たちを解放し、救いを与えられ、また今日も確かに私達の内にも生きておられる主イエス・キリストであるのです。こうして時が良くても悪くても、私たちを愛し、憐れんでくださったキリストを通して大胆に福音を宣べ伝えることが出来る、その力を確かに頂いているのです。(おわり)

川瀬弓弦(ゆづる)先生プロフィール:

家族:妻、川瀬エダ(ウクライナ国籍のハンガリー人)。子供、川瀬志恩(2才)。

出身地:神戸(灘教会で幼児洗礼を受けました)。信仰歴:15才の時に東部中会の田無教会で信仰告白、高校卒業後にアメリカのグランドラピッツにあるReformed Bible College留学。帰国後、川越教会に住みながら英語を教えました。2002年、ウクライナで妻と結婚、2003年から3年間、ルーマニアでハンガリー人児童・青年伝道従事。2006年神戸改革派神学校入学。説教免許取得。本年6月卒業後は北神戸伝道所就任予定。将来は世界宣教へ送り出されることを願っておられます。

 

 

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