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日本キリスト改革派伊丹教会伝道所

 「人を裁くな」

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典

2009.8.16

聖書:マタイ福音書7章◆人を裁くな

  1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

  4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

人を裁くな

今朝は、私たちの誰もが犯しやすい過ちの一つに対する主イエスの教えを学びます。主は言われました。7:1人を裁くな。」

 

この世では、裁き合いなどは日常茶飯事で、お互いさまかも知れません。しかし、「あの人は最低だ。何も分っていない」などという裁き合いが、家や職場、特に教会で見られるなら、どうでしょうか。心からの礼拝はできないと思います。口には出さなくても心の中で裁き合っているなら、それは神の教会を破壊します。ですから、この主の戒めは、誰もが肝に銘じなくてはならないとても大切なものです。

 

【一切人を裁いてはならないか?】

ところで、この教えについてしばしば間違った理解が見られますので、最初にそれを正しておきます。それは「一切人を裁いてはならない」というものです。これは如何にも柔和また寛容で、イエスの愛の精神そのものであるかのように思えるため、正しいと思われがちです。しかし、これは誤りです。

イエスはそうはおっしゃっていません。これは大事な点ですので、しっかり確認しておきます。

 

例えば、ある種の不潔で心の頑なな人を、当時のユダヤ的背景の中でですが、イエスが6「犬、豚」と呼んでおられることからも一目瞭然です。15節でもイエスは「偽預言者を警戒しなさい」と言って、偽教理を教える者たちを裁き非難しておられます。マタイ2313では、頑なな律法学者やファリサイ派の人たちに「あなたたち偽善者は不幸だ」と激しい非難を浴びせておられます。23っ章16では「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」と言われます。

 

パウロはローマ13章で、犯罪人は法律に従って裁かれなくてはならないと教え、テトス310では「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、関りを持たないようにしなさい」と言います。後に「愛の使徒」と呼ばれるようになったヨハネも、ヨハネの手紙二 10で命じます。「この教えを携えずにあなた方の所に来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。」「家に入れるな。挨拶するな」とあります。当時は信者の家で礼拝をし、家が教会でした。ですから、誤った教理を教える異端の牧師や説教者は、あなた方の教会に迎え入れたり、説教などをさせてはならないということです。自分の勝手な考えや体験をもって、それをキリスト教の教えだとするような説教者には、「いいお話でした」などと挨拶するな、という意味です。

 

もう十分でしょう。正しい裁きはすべきなのです。イエスがヨハネ724「上辺だけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言われる通りです。正しく人を裁き判断することは、クリスチャンの権利であり義務でさえあります。エゼキエル31718で、主はかつて預言者エゼキエルに言われました。「人の子よ、私はあなたを、イスラエルの家の見張りとする。私の口から言葉を聞くなら、あなたは私に代って彼らに警告せねばならない。私が悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。」

 

このことを今日のクリスチャンは肝に銘じる必要があります。救いの真理や教会の本質に関る重要なことは、人情論で動いてはならないのです。でも、一般的に言って、ヒューマニズムの影響を受けている今日の教会は、そうなりやすいと思います。イエスの愛の精神を真似て誰をも裁かず、誰にも嫌なことを言わず、いつもニコニコし、憐れみと赦しをもって交わるのが神の御心とされやすい。「お互い、罪もいっぱい犯し、弱い所だらけなのだから」と言い、また「戒めたりすると、かえってつまずかせることになる」と考えます。しかし、イエスははっきり偽教師を追放するように、裁きの権能(戒規権能)を教会に与えられました。主は教会に恐ろしいばかりの権能を与えておられます。復活の主は言われました。ヨハネ福音書2023「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

【教会の三つの印(マーク)】

宗教改革者たちは、教会の三つの印(マーク)を主張しました。1、聖書の正しい説教、2、聖礼典の正しい執行、そして3、霊的訓練を含めた正しい裁き、すなわち戒規の執行です。これらがあってこそ、真の教会です。ですから、「人を裁くな」との御言葉を、個人であれ教会であれ、何にでも適用してはならないのです。

 

ついでに言いますと、非常に不信仰で心の頑なな教会員への教会による公の戒規、裁きの内容は、第一段階が訓戒、第二段階が陪餐停止、第三段階が除名です。勿論、これらは戒規の目的をよく理解した上でしなくてはなりません。戒規の目的の第一は、罪に陥っている人のあくまでも救いのためです。

 

【戒規は愛の鞭と教会の純潔のため】

戒規により、その人が神を恐れ、罪を悔改め、教会の交わりに復帰できるように、愛の鞭として行います。二つ目は、教会の純潔のためです。「あの人があの程度の信仰と生活で許されているのなら、私だって構わない」というような考えが、教会の中で広がらないためです。

 

【神の栄光のため】

そして三つ目は、勿論、神の栄光のためです。最終的には全て神の栄光のためです。

「人を裁くな」という主の教えの間違った解釈については、もう十分でしょう。

 

【裁き癖】

では、主が戒めておられることは何でしょうか。主は何を一番問題とし、何を禁じておられるのでしょうか。それは、私たち生れついての罪人に見られる一つの習性にまでなっている裁き癖のことです。ギリシア語の原文では、71「裁き続けることをやめよ」というニュアンスの表現になっています。イエスは私たちの習性をよくご存じです。私たちは皆、何とすぐ人を非難し、あら捜しを始めることでしょう。

 

私たちは、何と他人の欠点や短所には目ざといでしょうか。生れながらに私たちは他人をすぐけなし、悪口を言い、それらを口に出さなくても心の中でじっと持っている、という一種の習性を持っています。そうではないでしょうか。

 

一度、次のように自分をテストしてみると良いと思います。知ってはいますが、それ程親しいわけでもないある人のことを想像し、その人について素晴らしいと思える点と、気にくわないと思える点を上げて見ます。きっと後者の方が多いでしょう。素晴らしいと思う人と駄目だと思う人のどちらが多いかを数えても、結果は一目瞭然でしょう。

 

【人間の罪深い習性】

では、何故そうなるのでしょうか。私たちが、人の欠点には目ざとく、すぐあぁだこうだと決め付ける、要するに、人を裁きやすい非常に強い習性を持っているからです。主はこういう私たちの本能また体質にまでなっている裁き癖を問題にしておられるのです。自分のことは棚に上げておいて、他人はすぐ裁き批判する。そういう罪深い習性に私たちが気付くことを、主は願っておられます。私たちをそこから救うためです。

 

【弟子たちに語られた】

ここのさらに詳しい説明は次回行いますが、主はこれを信仰のない人に語られたのではありません。マタイ福音書の5章から始まる山上の説教は、近くにいる弟子たちにまず語られています。この戒めは、主の御言葉を愛し、主に従いたいと願っているクリスチャンと求道者に語られています。そして主は私たちを真に愛しておられますので、私たちを罪深い習性から離れさせ、父なる神様の前にもっと清め、神の国に入るために十分備えさせたいのです。

 

【完全な癒しのため】

イエスの御言葉は鋭いです。それは主が私たちを永遠の滅びから救うだけでなく、今現在も罪の支配から解放し、清め、ご自分の豊かな祝福に私たちを与らせたいからです。そのため、すぐ人を裁くという罪の膿を絞り出そうとしておられます。完全に私たちを清め、癒すためです。

 

【ファリサイ派の人の罪:自己義認】

しかし、どうして主はここまでこの問題を扱われるのでしょうか。それは自己義認、つまり、自分は正しいとする最も深い罪の表れだからです。自己義認の典型的な例の一つが、ルカ福音書189節以下の喩えの中のファリサイ派の人に見られます。彼はどう祈っているでしょうか。「神様、私は他の人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。」

 

神の憐れみによって自分が生かされ、辛うじて正しい清い生活をさせていただいていることを少しも感謝せず、「私はいい人間だ」と優越感に浸っています。これは決って人を見下す傲慢な態度と結びつきます。

 

【過度に批判的】

人を裁きやすい習性は、人に対して過度に批判的になります。正しく批判的であるのと、過度にそうであるのとでは大違いです。正しく批判的であることには建設的な要素があり、これは必要なものです。しかし、過度に批判的であることは、破壊的です。人の欠点、弱点を捜し出すことに一種の喜びや快感を覚え、とにかくあら捜しが好きです。

 

【人の欠点や弱点を喜ぶ罪】

私たちは自分の心をよく見つめたいと思います。例えば、私たちがある人を羨んでいるとします。そしてある時、今まで知らなかったその人の欠点や弱点を知ったとします。どうでしょう。それを少しでも喜ぶ気持や快感を抱くことがあるとするなら、それこそ、イエスがここで警告しておられる危険な心です。こういう意地の悪い喜びを自分の内に感じたなら、クリスチャンは直ちに御霊により意識的に自分の中から排除したいと思います。「人の弱点を喜ぶ意地の悪い裁き心よ。イエスの御名によって命じる。私から出て行け」と叫ぶのです。これは、気付いたら、すぐ追い出さなければなりません。放置していてはなりません。

 

【なぜ人を裁くか】

最後に、この裁き心、過度の批判精神の生れやすい原因を見て終ります。

それは、聖書の御言葉という客観的規準によって人を見る癖が、まだ十分私たちの身についていないことにあります。宗教改革者カルヴァンは、「聖書は我々が物事を正しく見るための眼鏡である」と言いました。その通り、人を見て判断する時も、聖書の原則に照らし、それに基づいてすべきなのです。

 

【唯一の裁き主】

ところが、それが私たちにはなかなかできない。神の原則によってではなく、自分の主観と気紛れな規準によって人を見、なお悪いことに自分が裁判官になり、時には神だけが下せるはずの最終判決まで下す。これをヤコブの手紙411は注意します。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、一体何者なのですか。」

 

正しい客観的原則によってではなく、自分の主観的尺度で人を裁くのは恐ろしいことです。私たちは自分の心をよくチェックしたいと思います。「あの人に対して、私はいい思いを持っていない。正直な所、好きになれない。一緒にいて楽しくなく、むしろ不快だ」というなら、私たちはそういう自分の心をこそよく分析し、何故そうなのかをよく考えたいと思います。聖書の示す原則によって自分がその人を判断しているかどうかをチェックすることが何より先決です。自分と正直に向き合い、一つ一つ自分の感情を分析してみたいと思います。

 

御霊の祝福

「人を裁くな」とイエスが聖書で教えておられるということは、誤って人を僭越にも裁き、あら捜しをする醜い習性が、私たちの誰にもあるということです。そういう厄介な習性を自分が持っていることを知るだけでも、大変大きな恵みだと思います。そこから、それとの戦いを始めることができますし、主に結びついている者は、御霊の祝福をいただいて、徐々にではあっても必ず清めていただけるからです。(おわり)

 

 

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